宋常星『太上道徳経講義』(33ー3)

 宋常星『太上道徳経講義』(33ー3)

自ずから知ることのできるのが「明」である。

[知ることができるのは理解する(明)からである]

大体において修行をしている人は「外」的な知覚を通して、それを「内」的に受け取る時に、多少の「不純」が含まれていることを自覚しているであろう。「外」的には充分な知覚を有していても「内」的にはそれをそのままに認識できない部分がある。そうであるから精神は適切に働くことなく、知覚も適切に外的な事象をとらえることができないのである。「穆」を抱えて「淳」に還る(余計な先入観を排してただ認識できたものをそのままに知覚する)。「私」を少なくして「欲」を小さくする。こういう状態を久しく続けていると、「本性(純粋知覚)」は自ずから明らかとなる。心の徳を自ずから悟ることができるようになる。真知(純粋知覚)、真智(純粋認識)が自然に現れて来るのである。そして他人のことが分かるだけではなく、古今東西、何でも知ることができるようになる。修行者は、はたしてよく虚静を守っているであろうか「内」も「外」もなく、過去も現在もない。こうした中に自ずから「内」的な目で見たならば、意図しない内に奥深い知覚が得られるものである。真静で心身が安定していていれば、空に月が出て来るように、まったく明らかなる知覚が開かれて来るのである。こうした知覚が「本性」に基づく「明」らかさなのである。そうでなければ、そうした知覚が得られることが果たしてあるであろうか。


〈奥義伝開〉本当の「静」である「真静」が得られたならば、本来的な感覚が開け、真実を認識できるようになる、と宋常星は述べている。これは仏教でも同様である。釈迦の頃は瞑想により感覚器官を浄化することが最重要視された。ただ感覚器官の「完全」なる浄化は不可能であるから、完全なる認識も人は得ることはできないことは仏教の長い歴史が証明している。ここで老子はそうした妄想的なことを言っているのではない。「智」と「明」については従来の「智」と「明」を対にする解釈で読んでみたが、以下は[ ]で示したように、二つのフレーズをひと続きとして読む解釈で提示する。これは「自」の意味の取り方によるもので、これを「おのずから」とするか「よる」とするかで違って来る。私見によれば老子は「知(智)ることができるのは理解する(明)からである」と述べているということになる。


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