道徳武芸研究 『老子』第三十二章と意拳の試み(3)

 道徳武芸研究 『老子』第三十二章と意拳の試み(3)

「実」として現れた分脚、トウ脚、あるいは端脚や擺脚などあらゆる蹴りは、足をあげるという一般的にだれでも行っている動作(虚)に還元できる、と考えるのが孫禄堂の実と虚の理論であり、その構図は老子の器と樸の考え方と等しい。そこで具体的に孫禄堂における実と虚の問題を考えてみたいわけであるが、孫禄堂は八卦拳では導引的な動きである八母掌を「虚」として、実際の攻防を「実」と見ていた。この「実」の部分は古い八卦拳では羅漢拳としてあったのであるが、孫はそれを廃して八母掌だけにすることで門派の壁を無くそうとしたのである。確かに八母掌は攻防の動きそのものではないので「実=器」とは言い切れない。「虚=樸」であるとすることは可能であろう。一方、王向斉は意拳でただ立つだけの混元トウをベースとした。立つことがあらゆる動きの根元であり、そこから足を上げたり、手を伸ばしたりすることで、攻防の技が生まれると考えたのであった。王はその「虚」を「混元」トウとしているが、混元は混沌と同じく「虚」の世界を象徴する語である。こうして見ると八卦拳独特の動きを含む八母掌を「虚」とする孫禄堂より、ただ立つだけの混元トウを「虚=混元」とする王の方がより理論的には徹底していると言えるようでもある。


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