道徳武芸研究 『老子』第三十二章と意拳の試み(4)

 道徳武芸研究 『老子』第三十二章と意拳の試み(4)

ただ立つだけの混元トウに「虚」を置いた意拳であるが、しかし実際の攻防を効率良く行うにはやはり蹴りなら蹴りの合理的な体の使い方があるので、それを習得しなければ余りに練習において非効率である、という現実に直面する。そうしたこともあって王向斉も形意拳の技を套路としてではなく個々の技に分解して教えていたようである。意拳の考え方では、混元トウで「虚」の境地を得て、自由に攻防をすれば自ずから「実」にあっては最も自然である動き、つまり最も合理的な動き出てくると構想したのであったが、それは実際には不可能であることが分かって来る。そこで「実=器」から「虚=樸」への還元はどのくらいの程度に行うべきか、ということが問題となろう。それは老子の示している通りの「樸」つまり「加工されていない木」までが適当なのではなかろうか。また老子はこれを「嬰児」ともしている。人を出現させるにはその「嬰児」あたりに還元させるのが現実的なのである。そうであるからやはり孫禄堂のように八卦拳であれば、八母掌にまでの還元が適当なのであって、これをただ立つだけの混元トウにまで至らせてしまうと、攻防へのリンクが繋げなくなってしまう。改めて見てみると中国武術には「母拳」という考え方がある。まさに八卦拳では八「母」掌があるわけである。このように本来、中国武術には「樸」へと還元することのできるシステムがあったのである。それが忘れられて試行錯誤されたのが近代の王向斉であり孫禄堂であったのである。近代に展開された虚実論よりさらに優れた樸器論が老子によって唱えられていたわけである。


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