宋常星『太上道徳経講義』(32ー2)

 宋常星『太上道徳経講義』(32ー2)

道は常に名を有することはなく(無名)、使い物にならず(樸)、取るに足りないもの(小)であるから、誰もそれをあえて使おうとはしない(臣)。

天が生まれ、地が生まれ、人が生まれ、物が生まれることが造化の根本である。そしてそうしたことを「道」という。それは変わることく、滅びることもない。一定の理によって続いているので「常」と称される。またその働きは考えの及ばない程のものでもあるので、それを「名」付けることはできない。陰陽はいまだ分かれておらず、全体はそのままに保たれている。これが「樸」である。それは成長しきっていない木や、まだ発芽していない種のようなもので、それがどのような形になるのかは分からない。つまり無極の本体の状態にあるということであり、混沌とした状態が保たれているのである。まさに「道」とは「名」も形もないし変化もしないで、何時もそのままに存している(常)。それを見たり、聴いたりすることはできず「名」前を付することもかなわない。ただそうであっても、全く何も無いというのではない。それは思考の及ばないもので、存してはいるが、一定のきまった形を有しているのでもない。渾然としていて、すべてが含まれている。そうしたものが「道」なのである。そうしたものが「常」と称されるのである。これは「無名」なるものであり、これは「樸」なるものでもある。「常」なるものとされるのは、大道が悠久で不変のものであるからである。これが「無名」とされるのは、大道が(人の捉えることのできない)微妙な機によって動いているからである。これが「樸」とされるのは、大道において混沌が完全に保たれているからである。「樸」とは混沌であり無名であるということで、またそこには万物の生成の理がある。そこには万物生成の理が有されていて、天地の造化の根元が含まれている。大道は「小」とされるが、それはその働きが微細で捉えることのできないからである。「衆妙の門」とされる大道は非常に微細なところでも働きをしている。天地の万物は、全てこうした「無名」であるところの「樸」によって生成変化をしている。その大きさは人の考えを越えており、その小ささも捉えることのできない程のものである。その尊いことも限りなく、比べるもののない程であるから、誰もあえてそれを(「臣」下として)使うことなどできはしない。そうであるのが「無名」の「樸」なのである。こうしたことをここでは「道は「常」に名を有することはなく(無名)、使い物にならず(樸)、取るに足りないもの(小)であるから、誰もそれをあえて使おうとはしない(臣)」としている。道を学ぼうとする人で、もしよく父母が生まれる前、五行が働く前を悟ることができたならば、それは自分の真我を見出したということになる。物質的なとらわれから脱し、心は何物にも拘束されることがない。それが「樸」の「樸」で(つまり始まりの始まりとしての大いなる根元で)あることは自ずから分かるであろう。


〈奥義伝開〉ここで老子は「道」は「名」を持たないとする。つまり一定の概念をして規定され得る存在ではない、ということである。またここでは自然のままの状態をいう「道」を「樸」「小」「臣」をあげて説明している。つまり自然の状態のままでは、人はそれを利用することはできないということである。


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