宋常星『太上道徳経講義』(31ー7)

 宋常星『太上道徳経講義』(31ー7)

吉事は「左」を適当とする。凶事は「右」適当とする。そうであるから将軍は「右」に居て、葬礼の場所にあるのである。

先の文章を詳しく見てみると、「優れた人物(君子)として存している者は「左」を良しとする」とは、そうした人物は(争ったりすることなく)何事もなくて無事で居るということである。もしこれが軍事を用いる人であるならば、これは「右」を尊いとすることになる。ただ優れた人物が軍事を用いる場合は、本来的には優れた人物は「左」を良しとするのであるが、この場合は止むを得ず「右」を尊いとすることになる。つまるところこの世のあらゆる物、あらゆる人にあって、全てに文武、尊卑がある。およそ吉事は全て「左」を良しとする。およそ凶事は全て「右」を良しとする。こうしたことは不変の理であるから、将軍は「左」に存することになる。しかし(作戦を考える)上将は「右」に存している。どうしてなのであろうか。それは将軍は単に戦って勝つことを良しとするだけであるから「左」を吉位とするのであり、敵に勝つことが吉となる。そうなると将軍は「左」に存することになる。上将は全軍を指揮して国家を守ることを任としているので「右」は凶位となるので「左」に位置する。全ての兵の武器は、戦いにおいて凶器となる。これを将軍は吉とするが、上将は吉とすることができない。そうであるから(戦いの場ではなく)葬礼に自らを置くことになる。そうすることで殺人を美化することを拒んでいるわけである。つまり「とらわれのない心」で居ることを良しとしているのである。もし止むを得ず軍事を用いるとしても、けっして殺人を肯定することはないのである。


〈奥義伝開〉将軍は軍事行動をとる者、上将は作戦を立てる者として、作戦段階で戦いを阻止できる存在である上将を道に近いものとする。これはシビリアンコントロールの重要性を説くものである。戦いが現実には生じるものであることは否めない。しかし、これを政治レベルで治めることができるならば、それは好ましいと老子は考えていた。これは全く現代でも変わらない視点であろう。老子の教えは二千数百年後には一般的にも認められるようになって来たわけである。老子はここで戦没者の慰霊を行うことが、戦争を拒否する道につながるべきであることをも示唆している。しかし現在、多くの国では「慰霊」を騙って戦争を賛美しようとしている。


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