宋常星『太上道徳経講義』(33ー2)
宋常星『太上道徳経講義』(33ー2)
相手のことを知ろうとするのが「智」である。
外的なことを知るのが「智」であるとされる。内的なことを知るのは「明」である。「智」の一字は、まさに外的なことを知ることを示しており、これにおいては決して内的なことを知る時の弊害は明らかとはならない。つまり道を明らかにすることができないのである。「外」的な「智」は自ずから明らかとなるものではないのである。そうであるから「相手のことを知ろうとする」とあるのは、「外」的な認識作用のことで、相手がどのようであるかを知ることができるに過ぎないのであり、相手の言動が適切であるかどうかを明らかにすることができるものではない。自分の本来の心のあり方である「本性」が明らかでない時には「智」に留まらなければならない。これを自ずから分かる「明」とすることはできない。そうであるから「相手のことを知ろうとするのが〈智〉である」とされているのである。
〈奥義伝開〉意図的に知ろうとすることが「智」とされる。宋常星はそれでは「大道」への悟りは得られないとする。あくまで「大道」は自ずから明らかになるものでなければならないからである。ただ老子はそうした特殊な場合を言っているのではなく、一般的に知ろうとして知り得た「智」と、常識的に分かっている「明」とがあることを述べているに過ぎない。真の「大道」とは、この世の大原則のようなものであるが、それを知るにはよく情報を吟味してみなければならない。孔子はこうしたことを「学」と「思」として説いている。知識を収集するだけで考えることがなければ本質的な洞察には到達し得ないし、考えるだけで知識が乏しければとんでもない思い違いをしてしまう、というのである。老子も同様のことを言っているわけである。