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宋常星『太上道徳経講義』(15ー8)

  宋常星『太上道徳経講義』(15ー8) それは「盛ん(敦)」なのであり、まさに自然のまま(樸)のようである。 これは、邪心がなく全てに真心をもって対していることを、強いて形容している。「盛ん(敦)」とは「真の感情」である誠が欲望にさえぎられることなく働くことである。「自然のまま(樸)」は後天的な意識の働いていない状態であることをいっている。古の善を実践した修行者は、本来の天性が失われることなく、その真の心を持していた。それは失われることがなかったので視聴、言動においても、真の誠を欠くようなことはなかった。知にとらわれることなく、能にとらわれることなく、ただただ「自然」に行為を実践する。そこには是もなく、非もない。始めから天理によって「自然」に身を処するのみであるから、そこには欲望に制限されることのない「盛ん」な徳が表れ出ることとなる。それは木が大きくなって枝分かれする以前の状態であり、一本の芽が出た時の素朴で、それでいて本来の生命力が失われていない、こうしたことを「盛ん(敦)であるのは自然のまま(樸)のよう」としているのである。 〈奥義伝開〉「自然」のままであるのが最も生命力が強いとする考え方が前提となっている。老子は人であれば「嬰児」が最も生命力が強く、それは人の本来有する力を欠くことが最も少ないからであるとする。そして成長をするに従って、いろいろな欲望により生命力は減退して行って最後には「死」を迎える。静坐では「元気」とされるこうした根源の生命力に触れることを重視するが「元気」そのものは、先天の気であるとされ、人の持つ後天の「精、気、神」はそれから派生したものとされている。つまり、先天には「元精、元気、元神」があると考えるのであり、またこれらをひとつにして「元気」としてとらえられることもある。「元気」つまり先天の気をとらえることが重要であるのは、それが同じく先天の世界にある大道と同じものであるからに他ならない。つまり「嬰児」はまた大道にもっとも近い人間存在でもあるのである。老子は「嬰児」をして「柔」を象徴するものとする。また「柔」は太極拳で最も重視されるものでもある。つまり太極拳の「柔」は、単なるリラックスではなく、先天の「元気」の開かれることを示しているのである。

宋常星『太上道徳経講義』(15ー7)

  宋常星『太上道徳経講義』(15ー7) それは「とける(渙)」ようであり、氷がまさに溶けようとしているかのようである。 これは大道を実践する者は、心が溶けようとしているのであるとして強いて形容したものである。「とける(渙)」とは形がなくなるということで、つまり元の形を留めないということであって、今あることに強い執着を持たないということである。古に善を実行した修行者は、一切の有為の事象を「水の上の泡」のように見なしていた。つまり有為のものは長続きすることはないことを知っていたのである。そうであるからそれにとらわれることはなかった。あらゆる執着の中に沈んで行われることは、あたかも夢の中の幻のようで、それが虚妄であることをよくわきまえていた。そうであるから有為の行為に強く執着することがなかったのである。心において見られる「幻影」は、全てが幻であって、それは徐々に脱して行かなければならないものである。そうしたものを「氷がまさに溶けようとしている」と形容した。次第に溶けて氷が無くなるように、有為の執着から離れて行くわけであり、有為の行為に留まることはなくなるわけである。こうしたことを「とける(渙)のは氷が溶けるよう」としている。 〈奥義伝開〉「渙」は「水の変化する様子」を原義として持っている。大道とは普遍的な存在であるので、心がひとつに固着してはそれを実践することはできない。しかし、人はいろいろな環境により、心の執着を得てしまっている。それを完全に脱却することは難しいのであるが、できるだけそうしたもののとらわれから脱しようと思うことが重要となる。世の中の「あたりまえ」は「あたりまえ」では全くない。時代によってもそうしたものは大きく違っているし、場所によっても同じではない。現在は往々にして「グローバル化」が良いように言われているが、必ずしもそうでないことは少し問題となっている事柄の背景を調べてみれば容易に分かるものである。

宋常星『太上道徳経講義』(15ー6)

  宋常星『太上道徳経講義』(15ー6) それは「うやうやしい(儼)」のであり、あたかも礼にかなった動作(容)を行っているかのようである。 これは大道を実践する者の立ち居振る舞いについて、強いて形容している。古の善を実行した修行者は、外面はつつしみ深く(恭)、内面はうやうやしく(敬)あった。正しい心で誠意をもって、人との交わりは情に厚く、こだわりがなく(虚)、自分が前に出ることもない(静)。尊い客と対しているのではなくても、その行為は行き届いており、常に尊い客に対しているようにしている。それは大切な祭りの時に神に対しているかのようでもあり、常に「敬」や「謹」が保たれている。つまり「尊い客が居ない時がない」わけである。こうしたことを「うやうやしい(儼)のは礼にかなった動作(容)のよう」としている。 〈奥義伝開〉「儼」は「おごそか」であったり「うやうやしい」くしている「人」のことをいう(人偏がある)。またこれも前の「猶」で宋常星が挙げていた「愼独」と近いものである。本来「猶」も「儼」も祭祀において神を迎える厳粛な気持ちや態度をいうものであった。これは「神」つまり「大道」と一体となっているから常にこうした気持ちや態度をとることが可能となっていると考えることができる。老子の頃には太古の神祭りの迷信から一歩進んで「道」や「徳」といった倫理に依拠することで、こうした人としてのあるべき行為が保たれると考えた。

道徳武芸研究 柔道、剣道と坐禅〜身体的な要求とシステム〜(4)

  道徳武芸研究 柔道、剣道と坐禅〜身体的な要求とシステム〜(4) 戦中は特に日本人の「精神性」が強調され、そうした中で「禅」への関心が持たれるようになる。鈴木大地や西田幾多郎などが知的リーダーとして禅宗の「禅」から新たな哲学的な営みとしての「禅」へと道を開き、多くの若者の心をつかんだ。西田を代表とする「京都大学学派」で学びたいと熱望する学生も多かったと聞く。日本では近世から近現代において柔道、剣道、禅が重要な関係性を有するものとして認識されるようになって来たのであるが、これは中国での八卦掌、形意拳、太極拳の組み合わせときわめて近いものがある。このような「現象」が見られるのは、これらが現在において武術、武道のひとつの「理想的な形」であるからなのではないかと考えられる。興味深いことに本来は拳術である八卦掌は柔術的な投げ技として知られるようになって来ており、形意拳は一時は銃剣術への応用が模索されたこともあった(黄柏年『形意拳拳械教範』)。また太極拳は静坐一体のものとしてとらえられることもある。これについては陳微明の『太極拳答問』で太極拳は静坐に比べて簡単であることが強調されていることでも明らかであろう。つまり太極拳を修行することで静坐と同様の効果を得ることができる、と同時に太極拳はただ体を動かしていれば良いだけなので、静坐よりは遥かに簡単であるとするわけである。つまり近現代の中国でも期せずして八卦掌(柔道)、形意拳(剣道)、太極拳(坐禅)とする組み合わせへの成立し得る傾向が見られるのである。

道徳武芸研究 柔道、剣道と坐禅〜身体的な要求とシステム〜(3)

  道徳武芸研究 柔道、剣道と坐禅〜身体的な要求とシステム〜(3) 一方、近世には剣術に対応するための柔術も生まれる。これは柔道として現代に伝わっている。また更に柔術を用いて剣を使うのを制しに来た時に対するための「剣術の柔術」も考案されるようになる。これは合気道となった。これらの大きな違いは背負投げや腰投げのないことである。剣を腰に帯びている状態では相手を背負うことも腰に乗せることも困難である。そこで小手返しや腕搦み(四方投げに似ているが転身はしない)のような技が展開されることとなる。こうして近世を通じて剣術と柔術は共に修練されることが多くなる。しかし近代以降は剣術が一旦廃れてしまうものの幕末あたりから盛んになった竹刀を用いた稽古法が剣道として復活する。こうして軍隊や警察では柔道、剣道が代表的な武道と見なされるようになる。現代でもその傾向は変わりなく日本武道の第一は剣道、柔道でそれに次いで杖道、合気道、空手道があることとなる。こうした流れは競技化、スポーツ化と一体のものでもあった。柔道、剣道がひろく行われるようになったその大きな要因に競技化のあったことを忘れてはなるまい。柔術から柔道、剣術から剣道へとする変遷の中で競技化が進められて、多くの人に興味が持たれるようになると、術から道へとする「精神性」の面を忘れてはならないとされることも出てきて、そうした中で坐禅への改めての注目がなされることにもなる。これはまた戦前の西田幾多郎や鈴木大拙に代表されるような「禅」ブームとも深く関係している。

道徳武芸研究 柔道、剣道と坐禅〜身体的な要求とシステム〜(2)

  道徳武芸研究 柔道、剣道と坐禅〜身体的な要求とシステム〜(2) 柔術が発展してくるのは近世になってからで、平安時代の終わり頃から発展を始めた剣術と比べれば柔術が求められる時代は遅かったといわなければならない。すでに『平家物語』の宇治川の戦いではいくつかの剣術の技法名があげられて派手な戦いが行われたことの演出の一助となっていることを見ても、古代にはすでに剣術の技法が確立されていて、それが意識的に修得されていたことが分かる。近世の柔術の始めは竹内流とされるが、その技法を見る限りでは小太刀の操法から生まれているとすることができる。古く日本の剣術では太刀が用いられていた。しかしこれは大きなもので、川中島の戦いで上杉謙信の急襲に武田信玄が太刀を抜くことはできず軍配で対応したエピソードで分かるように太刀は容易に抜けるものではなく、そのため林崎甚助が抜刀術を考案することになるのであるが、こうした問題を解消するひとつの方法として小太刀を使うこともあったようである。しかし小太刀で太刀をそのまま受けることはできない。どうしても入身を使って相手の中に入る必要がある。そこに柔術的な身法の必要が生まれることになる。竹内流のベースはこうしたところにあった。またこうした身法の応用が有名な竹内流の十手術となるわけである。

道徳武芸研究 柔道、剣道と坐禅〜身体的な要求とシステム〜(1)

  道徳武芸研究 柔道、剣道と坐禅〜身体的な要求とシステム〜(1) 日本では近世初頭あたりから剣術と坐禅との接触が始まるようである。それは沢庵と柳生宗矩との逸話でも知ることができるし、新陰流の伝書である「兵法家伝」には禅の影響が明らかである。それ以前に華道や茶道では既に禅との接触があった。華道の元となった立花は仏への供養のひとつであるし、喫茶は栄西に「喫茶養生記」があり禅宗と深い関係がある。また利休は利休居士と称されるように大徳寺で修行をした在家の仏教信者である。更に幕末には山岡鉄舟が出て禅による心の鍛錬が剣術でも必要であることが強調されるようになる。その流れは現代にも少なからず受け継がれている。ただ禅(瞑想)が武術の修行にどのように役立つのかは明確に示されることなく、なんとなく武術の「精神性」をシンボライズするものとして「坐禅のようなこと」が行われているに過ぎないように思われる。それは武術が武道であること、剣術ではなく剣道であり、柔術ではなく柔道であるためのひとつの担保としての必要性がなんとなく認識されているからのようである。

宋常星『太上道徳経講義』(15ー5)

  宋常星『太上道徳経講義』(15ー5) それは「考えを巡らせている(猶)」であり、四方の隣人を恐れているようである。 これは大道を実践する者はあたかも、一羽だけで留まっている燕のようであると、強いて形容しようとしている。「考えを巡らせている」としているのは、一見してすぐに何かをしようとしているのでは無い様子をいっている。あえて何の考えもなくそれが行われることは無い、という感じを示している。これは前の「ためらい(予)」と大体において同じである。古の善を実行した修行者の心の徳は純全であり、どのような発言でも、どのような行為でも、全く適切であって、あえて自らを欺くようなことは無かった。少しでも謹みを欠くようなことがあれば、それを恐れることは、四方から見つめられているのと同じであった。そうであるから誰も見たり聞いたりしていなくても、その行いの全ては天の理のそのままであった。ただ大聖や大賢でなければこのような独りで居て愼みを実践する(愼独)ことはできないであろう。こうしたことを「四方の隣人を恐れているよう」としているのである。 〈奥義伝開〉「猶」とは「はかりごと」という意味でもある。意識が四方に及んで何かを企てている様子でもある。太極拳ではこのように四方に意識の及ぶことを「敷」字訣として教えている。太極拳や静坐の修行」により一定程度の意識の深まりを感じるようになると細かな心身の動きを自分にも感じるし、それが及んで他人にも感じられるようになる。これが「敷」であり「猶」である。一方、宋常星は注釈で「大学」にある「愼独」の意を用いて解釈をしている。これは儒教では特に重要なこととされていて、常に道と一体となった意識状態にあると、人が見ていない時でも「礼」の実践を怠ることがないとする。儒教であるべき理想的な人のあり方を示すものでもある。

宋常星『太上道徳経講義』(15ー4)

  宋常星『太上道徳経講義』(15ー4) それは「ためらい(予)」であり、冬に冷たい川を渡ろうとする時のようである。 これは大道を実践する者が、事に臨み物に接した時のことをあえて形容している。急いで行おうとはしない、それを「ためらい」とする。つまり、行うのを躊躇しているということである。かつての道の修行者は、つつしみ深く、その才能を顕わにすることなく、事に臨み物に接した時に、敬謹(けいきん つつしみふかく)であった。あえて何も考えずに何かを行おうとするようなことはなかったのである。それは寒い冬に川を渡る時に冷たい水に入るのを「ためらう」ようなものである。骨までしみるような冷たさのある水に入るのは嫌うべきことであるし、あるいは水の深いところがあってそこに沈んでしまうことも注意しなければならない(夏であればたとえ水の中に沈んでも泳いで浅瀬にたどり着くことができようが、冷たい水の中では体が動かないので簡単に溺れてしまいかねない)。そうであるから「ためらい」があるのであり、あえて進もうとはしない、ということになるのである。止むを得ずして歩みを川に入れるという具合である。この止むを得ずというところを形容したのが「ためらい」という語になっている。そうであるので「それは『ためらい』であり、冬に冷たい川を渡ろうとする時のようである」としてここに述べられているわけである。 〈奥義伝開〉大道の体現者は軽挙妄動することはない、ということである。何か大きな事が起きると世論が沸き立つことになる。そうした時には注意が必要で、往々にして熱気に流されて誤った選択をしてしまうことがある。個人にあっても危機的状況にある時には「余裕」を持ってじっくりと構えていなければならない。儒教ではかつてはこうした時に易を立てたがそれは、一旦心を鎮めるために他ならならい。日本なので寺社に籠もった(数日滞在した)のも同様で、それはむやみな行動をしないための知恵であったのであり、易や寺社に籠もること自体に意味があるわけではない。それが後には占いで未来を予測しようとしたり、神仏の加護を受けられるとする迷信として誤解されるようになる。

宋常星『太上道徳経講義』(15ー3)

  宋常星『太上道徳経講義』(15ー3) そうした大道は全く言語化して認識することのできないものである。そうであるが強いてそれを形容してみることとする。 「そうした」とあるのは前の文章を受けてのことで、大道についての話を以下に続けうようとしている。人の言語化による認識について細かに考えると、これは行為と関係していよう。もし、そこに根本(体)と働き(用)をまったく見ることができないならば、それは何の認識も得られないこととなる。誰もそれがあるのを知ることができない。ただ知ることができないだけではなく、それをあえて形容することも不可能である。以下に続く文はあえて大道として感じられたことの微妙な感覚(玄通)のおおよそについての形容である。そうしたことをここでは「それは全く言語化して認識することのできないものである。そうであるが強いてそれを形容してみることとする」と述べている。 〈奥義伝開〉「道」とは法則のことであって、古来より中国ではあらゆる事象には一定の法則のあると考えられていた。特に天の太陽や月は明らかに一定の法則のもとに動いている。他の星々も同様である。また春には芽吹き、秋になれば実をつけ、冬には枯れる木々も一定の法則のもとにあることは明らかである。しかし太陽や月の動きと、木に実がなるということにおいて共通する何らかの法則を見出すことはできなかった。太陽の道(法則)や木に実がなる道(法則)は分かるもののそれらを総括する「大道」は存在が予測されるが、どのようなものかは分からなかったのである。そうであるから、とりあえずは感覚でとらえる他はないと老子はするわけである。

道徳武芸研究 龍形八卦掌における「暗腿」(4)

  道徳武芸研究 龍形八卦掌における「暗腿」(4) 龍形八卦掌でも基本的には、本来の八卦拳同様に扣歩で足の溜めを作って擺歩で踏み出す定歩の練法のあることは既に触れたが、では何故わざわざ足を上げるという独特の歩法を活歩において採用しているのであろうか。それは八卦暗腿への変化を示すために他ならない。八卦拳の歩法にはすべて暗腿への変化が含まれている(暗蔵)。それを明示して腿法の練習につなげようとするわけである。暗腿の特徴としては通常の蹴りが腰から(足の付け根)であるのに対して、膝を中心とするところに違いがある。膝を中心とした蹴りでは威力においては欠けるところがあるが、その変化は多彩となる。これはいうならば「当身」の考え方と同じで、相手にいくらかでも確実にダメージを与えれば良いとするのである。大きなダメージを狙って外すよりは、少しでも相手に影響を及ぼして自分が有利な立場になろとする。そして戦いの場から離脱しようとする。これが八卦掌の戦略である。

道徳武芸研究 龍形八卦掌における「暗腿」(3)

  道徳武芸研究 龍形八卦掌における「暗腿」(3) 一般的な蹴りは最初から力を込めて放たれるが、これでは動作の起こりが比較的明確なのでなかなか攻撃を当てることができない。またそうなると相手の反撃を受けやすくなる(勢いが大きいのですぐには体勢を変えられない)し、初動も遅くなるので、相手を捉えることも困難である。これは八卦掌においても同様な戦略がとられている。八卦掌でも蹴りは相手に触れてからの変化となる。こうした八卦掌の暗腿は、むしろ蹴りのイメージで考えるよりは「足(腿)の使い方」として理解する方が妥当であろう(腿法)。つまり八卦掌では蹴りも歩法のひとつとなるわけである。龍形で足を浮かせている動作はまさに腿法の変化が生じようとして、いまだ生じていない「未発」の状態にある。これは相手が居ないからで、相手が居て足が触れていればしかるべき変化がなされることになる。

道徳武芸研究 龍形八卦掌における「暗腿」(2)

  道徳武芸研究 龍形八卦掌における「暗腿」(2) 実際に龍形八卦掌で片足を上げるのは呉家太極拳の影響であると考えられる。龍形八卦掌と共に練習される九九(双辺)太極拳は呉家の套路をベースにしており、そうした「環境」において(形意、八卦、太極の三拳合一の考え方にあっても)、呉家の動作が八卦掌に取り入れらたものと考えられるのである。こうした片足をあげる動きは呉家ではどのような意味があるのであろうか。それは力の溜めに他ならない。足を上げて力を溜めて蹴るのである。形意拳では体の部位を「梢節」「中節」「根節」と分ける考え方があるが、これを太極拳の蹴りでいうなら「梢節」から「中節」そして「根節」が動くことになる。これは通常の蹴りが「根節」(腰)から発せられるのとは異なっている。太極拳では足の「梢節」が振られることでその「勢」が「中節」に伝わり「根節」を動かす。こうした連動を行なうことで力を生じさせている。つまり相手に触れてから、力が発せられるわけなのである。

道徳武芸研究 龍形八卦掌における「暗腿」(1)

  道徳武芸研究 龍形八卦掌における「暗腿」(1) 龍形八卦掌には他の流派にはない独特の動きがある。それは走圏において左右の方向を転じる動作の最後に片足を上げるものである。本来の八卦拳であれば円周上を歩いて、例えば左転から右転へと換わる時には十分に扣歩をとって力を溜めて歩を出すのが原則である。これはよく「スプリングの反発」と等しい力のイメージとされる。つまり歩の力を溜めて一気に反対へと踏み出そうとするわけである。このため扣歩の時には大腿部が密着していなければならない。孫禄堂の写真を見るとそのあたりの勁の使い方がよくわかる。もちろん龍形八卦でも定歩では足をあげないで、扣歩の溜めを作る練習をする。そして活歩で足をあげるのであるが、一般的にはもっぱら活歩のみが龍形では練られている。それは扣歩の溜めの歩法が形意五行拳の転換式で練られているからである。つまり形意拳では「定」として力の養成を、八卦掌は「変」として応用の修練を行なうように位置付けられているのであり、これは形意門における大体の八卦掌の共通した位置付けとすることができるであろう。

宋常星『太上道徳経講義』(15ー2)

  宋常星『太上道徳経講義』(15ー2) 昔の「善」を実践していた修行者は、微妙なる玄道について、深く識ることはなかった。 「修行者」とは初心の道の修行者のことである。「善」をよく実践することのできる修行者は、上にあっては天の道に通じ、陰陽の盛んになったり衰えたりする微妙な具合をよく知っている。また下にあっては地の理について剛柔や順逆の理をわきまえている。また中にあっては、人がどのように動くかを知っているのであり、その行為の大小、品格、利害の起こる機のことごとくを知り尽くしている。人の心の基本(体)と働き(用)のいたって微妙なところまでをも知悉しているのである。至道の奥義を「微」という。至道が知り難いことを「妙」という。至道の幽玄であることを「玄」という。至道に通じるのに妨げのないことを「通」という。根本としての至道は「真」を隠して知ることはできず、日常の場において至道に思いを及ぼすことはできない。もし至道の深いところを得て、至道への確信を手にしたならば、その微妙なるところに通じることができるが(玄通)、それは誰も余人をして知ることのできないものである。つまり大道の根本と働きを明らかに知ることはできないのであり、それはどうすることもできず、何らをも掴むことは不可能である。もちろんその奥義を伺うこともできはしない。そうであるから「昔の『善』を実践していた修行者は、微妙なる玄道について、深く識ることはなかった」とされているのである。 〈奥義伝開〉かつてよく「道(大道)」を実践し得ていた修行者であっても、それがどのようなものかを理解して行っていたのではないことが始めに示される。それはある種のニュアンスとして捉えられていた(玄通)に過ぎないのであり、それについては以下に述べられる。釈迦の説く「中道」もそうであるが、何かを実践しよとする場合、完全に理屈が分かっていなければ実践できないというものではない。また、そうしたことに足をとられるとかえって実践への力が削がれることにもなる。

宋常星『太上道徳経講義』(15ー1)

  宋常星『太上道徳経講義』(15ー1) かつての修行者は「善」なるものを社会的な活動において実践し、事に応じて物に接してそれを行ったとされている。これはまったく道徳を実践していたということに他ならない。およそ道徳を実践して、まったく偽りを行うことなく、一切の機知を用いることもない。大道は春風がどこにも吹くように、時雨があまねく地面を濡らすように、あらゆるところに働いているが、その影を求めようとしても、それが得られることはない。徳の始まる兆しを知ろうとしても、それを見ることはできない。かつての「善」を行った修行者は、ただ「善」を行っていただけで、何があっても、それ以上のことを尋ねるようなことはしなかった。それは大道というものを意識でとらえなくても、その働きが明らかであったからである。 この章では道を保つことが述べられている。それはかつての「善」を実践していた修行者の思いとして示されているが、そこでは大道の動静、体用を、人はその隠された意味を意識でとらえることの不可能であることが分かる。 〈奥義伝開〉老子は「善」の実践を重要とするが、何が「善」であるかを述べることはない。孔子も「仁」を説くものの何が「仁」であるかを詳しく説明しようとはしない。同様に太極拳でも「柔」や「鬆」について説明されることはない。そこで鄭曼青は師の楊澄甫から「柔らかく」とか「よけいな力を入れないで(鬆)」とか言われるもののどうして良いか分からず長く悩んだと述べている。しかしある時、独特な感覚があって、太極拳における「柔」や「鬆」がどのようなものであるのかを確信したという。ここでは老子が指導していたであろう静坐の時の「善」の感覚が「予」「猶」「儼」「渙」「敦」「曠」「渾」として示される。これらは我が居敬窮理学派で「敬」の一字として教えられるものと同じといってもよかろう。こうした一字訣をひとつひとつ自分の感覚で確認することで老子の静坐は深めれたものと思われる。

宋常星『太上道徳経講義』(14ー10)

  宋常星『太上道徳経講義』(14ー10) 古の道を執って、もって今の有を御(ぎょ)せば、よく古の始めを知る。これを道紀と謂う。 「執」というのは執って持つということである。「古の道」とは「先天」「先地」のことで、あらゆるものがいまだ形を持っていない時、混沌として「一の道」である時のことである。「御」とは治めるということである。「有」とはこの世のあらゆる有為の事物のことをいう。「古の始め」とは「帝の先」(先天)にあるような大道のことである。これを「古の始め」という。「道紀」は「道」こそが万物の綱紀であるということである。これらはすべて先に述べられることをまとめたもので、万法をして大道に帰するという意味なのである。「大道の妙」ということをよく考えてみると、これを「夷」ということもできるし、「希」ということもできる。「微」ということもできるし、「あきらかでなく昧(くら)くもない」、あるいは「無状無象」とすることもできよう。それは「無」や「虚」の中を探るようなもので、手を入れようにも入れるところはないし、体認しようとしてもすることはできないが、「道」はまた目の前にあることを忘れてはならない。またそれを悟ることは「至簡至易」であり、もしよく自分の「性」を内視することができ、何らの音や形に煩わされることなく、有無に捕われず、雑念の起こることなく、雑念の続くこともなく、何らの思いを持つこともなく、あらゆる形の捕われから脱して、つまりは「無状の状」「無象の象」となって自然と万法は混沌たる「一」に帰する、一切の大きなもの、細かなもの、精緻なもの、微細なものは無窮の色象であり、すべては道から生み出されている、そうであるからすべては「道紀」によっているのである。「道」を執ってそれを行なって「今これ有るを御す」となれば、この身において修されないものはなく、家において斉(とと)のわないものはなく、国にあっては治まらないものはなく、天下には平かならざるものはないことになる。まさにこれが「有」(後天)をしてその「無」(先天)を「体」とするということであり、その「無」(先天)を「体」として「有」(後天)を用いることの妙がここにあるのである。それを「古の道を修して、そうして今の物的世界に対する。このようによく古の始め(先天)を知ることを道紀を知るというのである(古の道を執って、もって今の有を御せば

道徳武芸研究 太極拳における歩法と勢(8)

  道徳武芸研究 太極拳における歩法と勢(8) 最後に「中」のつま先をあげる歩法について二十四式でそれが見られることについて触れておこう。二十四式では下がるだけではなく左右への転換をも含む動きにおいて、かなり大きくつま先をあげる。しかしこれでは動きの「勢」が途切れてしまい、大きな勢を生むことはできない。あくまで「中」の歩法は前後の「勢」が保持されたものでなければならない。二十四式においてこうした動きが生まれたのは、それを考案した李天驥が形意拳を主体にしていたからであろう。形意拳では「束」身という溜めの身法を用いる。そこでは一旦「勢」を途切れさせて十分な溜めを作ろうとする。しかし「捉」によって相手は捉え続けていなければならない。この勁が途切れているようで、続いているという攻防の理の「矛盾」を解決したのが八卦掌から得た滾勁なのであるが、これについてはまた機会があれば説明をしたい。李天驥は推手でこの「束」をよく用いていた。これをしても李のベースが形意拳であることが分かる。美乃美から出ていた『中国太極拳』には李が「束」の推手を用いている珍しい写真が掲載されている。

道徳武芸研究 太極拳における歩法と勢(7)

  道徳武芸研究 太極拳における歩法と勢(7) かつて李香遠(楊家太極拳)は中国南方へ太極拳を教えに行く薹英傑に「高」の歩法の鍛錬を知らなければ、南方へ普及に行って試合をしなければならなくなった時に十分ではないことを指摘したとされる。これは膝を高くあげる歩法が、ひとつには大きな勢を生むものであり、また蹴りへの変化を可能とするものであることをいっているわけである。もちろん薹の伝えた套路にはそうした動きを見ることができる。「低」「中」「高」の歩法の鍛錬は修行者自身の鍛錬のレベルなどによって勘案して練られるべきであるが、こうしたことが適切に行われることによって初めて円熟した功が養われる。この場合、最も重要なことは動作における「勢」が散漫にならないようにすることである。こうして養われる「憩」が「勁」とされるもので、単純な筋力によるのではない、太極拳に独特の「ちから」を生み出すことが可能となる。

道徳武芸研究 太極拳における歩法と勢(6)

  道徳武芸研究 太極拳における歩法と勢(6) 太極拳では虚歩のように、後ろなら後ろに動きを止めて力を溜めるということはしない。あくまで「前」と「後」の二方向の勢が同時になければならないのである。またそれは均等であってもならず、不均衡であることで動きを導くことになる。つま先をあまり上げることが無ければ(低)、動作は安定しているが、威力には欠ける。一方、足を高く上げる歩法(高)は不安定さが出てくる。こうした身法は野球の打者とまったく同じである。野球の打者は一般的には「低」の歩法であるが、イチローで知られる「振り子打法」は「中」、王貞治の「一本足打法」は「高」とすることもできるであろう。「振り子打法」と「一本足打法」は基本的には同じであるが、後ろへの溜めが大きいのは「一本足」の方である。ちなみに、これは合気道をヒントに考案されたともいわれている。

道徳武芸研究 太極拳における歩法と勢(5)

  道徳武芸研究 太極拳における歩法と勢(5) 太極拳独特の踵を地面に付ける歩法は、つま先を付ける虚歩に比べて前に出る勢いを多分に含んでいる。一方、虚歩は完全に「溜め」で、それより蹴りを放つこともできる。この太極拳独特の歩法には「低、中、高」の区分がある。つまり、つま先をほとんど上げないのが「低」で、つま先を明らかに上げるのは「中」、そして足を高くあげるのは「高」とするのである。ひとつの動作が終わって身体を引き、次の動きに移る時、簡易式(鄭子)や新架ではほとんど、つま先をあげることはない(低)が、呉家では明らかに上げる(中)。これは勢いを得るために他ならない。また老路ではおおきく足をあげている(高)。これは「中」をさらに大きくしたものに他ならず、実際の蹴りがここに含まれていることを明示してもいる。これら「低、中、高」の歩法の違いは基本的には動作を大きくするか小さくするかの違いに過ぎない。どれも同じなのであるが、それぞれの歩法の持つ意味をよく知って鍛錬をしなければならない。

宋常星『太上道徳経講義』(14ー9)

  宋常星『太上道徳経講義』(14ー9) 「大道の妙」ということを考えて見るのに、それは広くて無限である。大きくて限りがない。本来的に「前」もないし「後」もない。また「首」もないし「尾」もない。これえを迎えようとしても迎えることのできるところはなく、これに従おうとしても、從うことのできるところはない。本当に「端」もないし「緒」もないのであり、「朕(しるし)」もないし「兆(きざさし)」もない。元神の働きは絶えることなく、あらゆるものを包み込んで止まない妙がある。もしこうした天地の内奥を悟ることができたなら、「これ」はすなち「我」であり、「我」はすなわち「これ」であって、「これ」と「我」はもとは二つの存在ではない。これを「無体の体」という。これを「無相の相」という。これを「非色非空」という。これを「不動不静」という。 禅宗に入って、棒をして打たれても、それを気にすることもない。喝と気合を入れられても、どうということもない。ああ、「これ」に覚醒すると、「これ」はどこに求めるのではなく目の前にあることが分かる。内丹道では内丹が得られようとしていても、それを気にしない。これを聴けども聞くことはないし、これを搏(う)ってもそれを得ることはない。あるはこれを迎えてもその「首」を見ることはなく、これに随(した)がっても、その「尾」を見ることはないなどと言われるのは、すべて天地の根源である渾沌(無極、一元)から太極へと分かれる極の道の妙なのである。すべての修道の人をして、これによって悟りを得るべきは「天地自然の元気がいまだ分かれていないことの理」であり「父母から生まれる前の自分」にある。それには混(ま)じって「一」となる深い意味がある。すでにこの「理」を得たならば、万法は「一」に帰してしまう。自分は「誰の子」か知らないし、その存在(有)の意味を知ることもないし、その非存在(無)の意味を知ることもない。これを「天門」というが「天門」というきまったものがあるのではない。万物が有無のおいて出入りをするだけである。そうであるから聖人は「無有の中」を深くその内に蔵しているのである。 〈奥義伝開〉先天から後天への変化、無極から太極への変化、その「機」をよく知っているのが聖人である。これは禅で厳しい修行をしても、内丹道の瞑想に熟達しても、それらはすべて後天の神の働きであって、先天の神つまり「元神」

宋常星『太上道徳経講義』(14ー8)

  宋常星『太上道徳経講義』(14ー8) これを無状の状と謂う。無象の象、これを恍惚と謂う。これを迎えてその首を見ず。これに随いてその後を見ざる。 先の一節でも無について触れているが、ここでの「無状の状」「無象の象」とは何を言うのか。「無状の状」といったものがどのようなものか言葉で表現するのは困難であるが、要するにこれは「状(かたち)」が無いということであり、これは「状」というものの奥深い真実が述べられている。「無象の象」も、「象(かたち)」が無いということであって、「象」の奥深い真実を表している(状も象も同じ「かたち」の意であるが、あえていうなら「状」は内的な形、「象」は外的な形ということができようか)。そうであるから無極の元精は「状」を持っていないと同時に、「状」を持っていないということもないのであり、太極の実理は「象」を持ってはいないと同時に、「象」を持っていないということもないのである。こうしたことを「恍恍惚惚」と表現しているのは、智をしてそれを知ることはできないからである。 その根本となる先天の「気」の不可思議な実態としては、「頭」も無く「尾」も無いということがある。「前」を求めようとしてもそれは無く、「後」を求めようとしてもそれも無い。これらはつまりは「至真無妄の実理」であり、それは顔子の言う「これを仰げばいよいよ高く、これを鑚(き)ればいよいよ堅し。これをみれば前にあり、忽然として後にある」「これに從わんと欲するも、よるなきのみ」(『論語』子罕篇)のようなものなのである。大道の本来的な姿(本然)はこのようなものであると思われるが、そうであるから「無状の状、無象の象、これを恍惚という。これを迎えてもその「前」を見ることはできず、それに従ってもその「後」を見ることはできない(これを無状の状と謂う。無象の象、これを恍惚と謂う。これを迎えてその首を見ず。これに随いてその後を見ざる)」とされているのである。 〈奥義伝開〉ここでは『論語』の顔回の言葉が引用されているが、これは孔子の偉大さを述べたところに見ることができる。孔子は偉大でそれを捉えようとしても、まったく手が届かないというわけである。それと同じく先天の世界もそれを直接に捉えようとしてもかなうものではないことが述べられている。またここでは孔子が先天の世界に通暁していたことをも暗示していて、これにより儒教と道

宋常星『太上道徳経講義』(14ー7)

  宋常星『太上道徳経講義』(14ー7) 縄縄(じょうじょう)たるは名ずくべからず。復(ま)た無物に帰る。 「縄縄」とは絶えることなく続いているということである。天地がいまだ形を持たない時、万物の生まれる兆しさえない時、そこは空空洞洞としており、何も存することなく真一の実理もないし、真一の大理も働いてはいない。これが「縄縄」ということで、間断することがないわけである。それは空虚で動きがなく兆しもない、元神も動いていない妙処である。こうした状況を名付けようとしても、名ずくべきところがないのであり、何らかの実態を指差そうとしても、指差すべき何らの実態をも見出すことができない。その有ることを言おうとしても、つまりはまた物のないところに帰してしまう。その無いことを言おうとしても、それは有るようであるがまた無いようでもあり、無いようであるがまた有るようでもある。そうであるから「永遠に続いているものは、それを名付けようとしても名を付けることはできない。結局は名を付ける物が無いということになってしまう(縄縄たるは名ずくべからず。復た無物に帰る)」ということになるのである。「縄縄」ということの意味を考えるに、「縄縄」とは絶えることがないということは既に述べた。物が有るようであるが、実際は無一物なのである。大道はその普遍的であること限りがない。そうであるからどこにでも及んでおり、無物の中にも入り込んでいる。つまりどこにでも入っており、その範囲は限ることができない。またそれを小さくとれば「一」となる。たとえ永続としての「縄縄」には形がないとしても、「縄縄」の理はある。この文章を読む人はこのあたりのことをよく考えて見るべきである。 〈奥義伝開〉大道は永遠に続いているが、それを実態として捉えることはできない、ということで、実態として捉えることができるのは後天の世界であるから、結果的に大道は先天の世界にあることになることになる。先天と後天は簡単に言えば対の世界で、これは「虚」と「実」として示されることが多い。また「無極」と「太極」とされることもある。後天の世界が限りのあるのに対して、先天の世界は永遠に続いて限りがない。すべてに始まりと終わりがあるのがこの世なのである。

道徳武芸研究 太極拳における歩法と勢(4)

  道徳武芸研究 太極拳における歩法と勢(4) 陳家と楊家では拳理の根本が異なっている。既に明らかにされているように陳家の基本は通臂拳である。その洪洞通臂拳の動きの風格はまったく陳家そのものである。一方、套路の流れ(動作の組み合わせ)は陳家と楊家では共通している(ラン雀尾から単鞭になるような動作の構成)。こうしたことからすれば陳家の「太極拳」は通臂拳の拳理によって太極拳の動きを改変したものと見るのが最も妥当である。そうであるとすれば「陳家砲捶」なるものは通臂拳のエッセンス(砲捶)であったと考えられよう。陳家溝では洪洞で寝られていた通臂拳のエッセンスを練っていた。そこに太極拳が伝えられた時、その優れた套路を改変して陳家独特の「通臂拳」つまり陳家太極拳を生み出したものと考えられるのである。陳家溝では陳家溝に移る前には洪拳を取得していたとする伝承があったとされるが、これは一般には中国で広く学ばれている洪家拳のことと考えられてている。しかし、あるいはこれは洪洞通臂拳のことなのかもしれない。

道徳武芸研究 太極拳における歩法と勢(3)

  道徳武芸研究 太極拳における歩法と勢(3) 他に陳家と楊家の違いを説明するものとしては「露禅が学んだのは陳家そのままであったが、それが世に広まるにつれて変えられた」とする見方もある。しかし、太極拳には陳家の主要な動きである金剛碓がないことや、ここで問題とする踵を付ける歩法が楊家のみにあるなど拳理の根本からの違いが見られることが、これでは説明できない。またこうした見方には豪快な動きの陳家でなければ「実戦的でない」とする単純な誤解も含まれているようである。実戦に名高い露禅であるから当然、豪快な動きを身につけていたとの思い込みがあるのであろう。これは太極拳の練法への無知によるものである。確かに楊家でも「快套路」なるものはあるが、それが「古い套路」であるとの認識は全く存していない。太極拳における実戦性と「快」と「慢」とは直結するものではないのであり、太極拳における「快」とは起点と終点までをもっとも効率良く動くことと考える。一見して速いように見えても、それが粗雑な動きであれば「遅い」としなければならない。太極拳は「慢」架でひじょうに厳密に正確な動きを得ていくことで「快」が実現されると考えるのである。

道徳武芸研究 太極拳における歩法と勢(2)

  道徳武芸研究 太極拳における歩法と勢(2) 近代以降、人や情報の交流が盛んになると陳家の「太極拳」と、楊家の太極拳が余りに違っていることに疑問が持たれるようになる。それについてはいろいろな理由が考えられて来ている。ひとつには「実戦的な部分を抜いた套路として教えた」とする見方もある。これは楊露禅が北京で宮廷の武官たちに教える時に異民族である満州族には正しい教えを与えなかったとするもので、多分に漢民族による「愛国」思想の影響を汲んでいる。しかし、武術を修練して来た者にとって、その動きが攻防に使えるかどうかを判断することは難しくはない。使えもしないエッセンスを抜いたゆっくりとした套路が、それでも広まったことを説明するには余りに無理がある。現在でも多くの「上達法」が数年で消えてしまうのも同様で、本当に効果のあるものでなければ長く広く伝承されることはないのである。

伝授会のお知らせ

 11月より伝授会を再開します。 詳細は以下をご参照ください。 https://sites.google.com/view/kkai13

道徳武芸研究 太極拳における歩法と勢(1)

  道徳武芸研究 太極拳における歩法と勢(1) 太極拳の歩法として特色のあるのは、つま先をあげて踵を付けるもの(手揮琵琶、肘底看捶など)で、こうした歩法は他の武術に見ることはできない。陳家太極拳ではこれを虚歩に改めている。このことは陳家が本来の太極拳の拳理の上に套路を構築しているのではなく、陳家独特(通臂拳)によるものであることを示しているといえよう。本来、陳家溝では「陳家砲捶」なるものが修練されており、それが陳長興によって現在のような「太極拳」の形にまとめられたとされている。陳長興から拳を学んだのが楊露禅で、楊は「陳家の拳は陳姓以外の人に教えることはできない」とする決まりにより長興が修得していた太極拳(後の楊家と称されるようになるもの)を教えられたとされる。このため陳家の「太極拳」と楊家の太極拳では大きな違いが生じることとなった。

宋常星『太上道徳経講義』(14ー6)

  宋常星『太上道徳経講義』(14ー6) その上はあきらかならず。その下は昧(くら)からず。 「あきらかならず」「昧からず」とは、明らかであって明らかではないということである。暗いようで暗くはないということである。仰いで「その上」を観ても「その上はあきらかではない」のであり、俯いて「その下」を察しようとしても、「その下は昧いからず」なのである。譬えば虚空に満るようなもので、あまねく法界は、区別はなく、間断もない。渾渾溟溟としており、万法を包括しており、それと関係していないものはなく、存在してないところはないのである。総ては皆、大道真一不二の妙理であり、一をして貫かれている。そうであるから「その上はあきらかではないが、その下も見えないではない(その上はあきらかならず。その下は昧からず)」とあるのである。 〈奥義伝開〉あきらかであり、あきらかでない、昧くもあり、昧くもない。これは「かすか」であるということを表現しようとしたものである。それはテレビや新聞の写真を細かに見るとすべて点の集合であることが分かるように、いろいろに見えているこの世もすべて等しい存在であることが分かるわけである。人の生物学的に見ればだれも等しく「人」であるに過ぎない。これがこの世の当たり前の法則(道紀)であると老子は述べているのである。

宋常星『太上道徳経講義』(14ー5)

  宋常星『太上道徳経講義』(14ー5) この三津者は、詰めるに致るべからず。故に混じえて一を為す。 (夷、希、微)の三者はこれを視ても見ることのできないものであり、これを聴こうとしても聞くことのできないものである。これを搏(う)とうしても搏つことはできない。「夷」にして「希」なるものであって、「希」にして「微」なるものである。これらが「三者ということになる。「詰めるに致るべからず」の「致」とは窮め尽くすということである。「詰」とは問うということである。つまりこれは窮め問い尽くすことができないということなのである。これがどのような意味かとういえば「混じえて一を為す」ということになる。三者の「理」は分けることができるが、道は分けることができない。つまりその「理」は分けることができるので、三者には「夷、希、微」の名があるが、その道の実際を考えてみると、その本源にはあれこれといったものはないのである。また分けたり合わさったりすることもない。「夷」として知るべきは「希」である。「希」とはつまり「微」である。「微」はまた「夷」でもある。三者は一であり、一はつまりは三である。三、一の妙とは無始無終であり、渾然として一体であるということにある。そうであるから「この三者は究極的にはどうかと窮めようとしても窮めることはできない。それば三者が本来は混じり合って一つのものであるからである(この三者は、詰めるに致るべからず。故に混じえて一を為す)」とされている。天地の元気がいまだ分かれていない、その始め、それは道の本体であり、存在している場所もなく、その形もない、耳目をして聞くとも見ることもできない。「致」すことができないというのは、雲が峰から出ても、それを捉えることができないのと同じである。月が湖に写って、それを手にすることができないようなものである。そうであるからそれを広げれば全宇宙(六合)に及び、これを縮めればまったく兆しもないようなところに至ることになる。 〈奥義伝開〉「夷」「希」「微」はいうならば老子集団での静坐の秘訣であったであろう。こうしたものは一字訣といって中国武術ではよく用いられる。しかし老子はそれらの字訣に捉われ過ぎてもよろしく無いと教えている。これは第一章にあるように「名の名とすべきは常の名にあらず」ということで、便宜的に一字訣のような「名」を用いることはあってもそれ