宋常星『太上道徳経講義』(15ー3)

 宋常星『太上道徳経講義』(15ー3)

そうした大道は全く言語化して認識することのできないものである。そうであるが強いてそれを形容してみることとする。


「そうした」とあるのは前の文章を受けてのことで、大道についての話を以下に続けうようとしている。人の言語化による認識について細かに考えると、これは行為と関係していよう。もし、そこに根本(体)と働き(用)をまったく見ることができないならば、それは何の認識も得られないこととなる。誰もそれがあるのを知ることができない。ただ知ることができないだけではなく、それをあえて形容することも不可能である。以下に続く文はあえて大道として感じられたことの微妙な感覚(玄通)のおおよそについての形容である。そうしたことをここでは「それは全く言語化して認識することのできないものである。そうであるが強いてそれを形容してみることとする」と述べている。


〈奥義伝開〉「道」とは法則のことであって、古来より中国ではあらゆる事象には一定の法則のあると考えられていた。特に天の太陽や月は明らかに一定の法則のもとに動いている。他の星々も同様である。また春には芽吹き、秋になれば実をつけ、冬には枯れる木々も一定の法則のもとにあることは明らかである。しかし太陽や月の動きと、木に実がなるということにおいて共通する何らかの法則を見出すことはできなかった。太陽の道(法則)や木に実がなる道(法則)は分かるもののそれらを総括する「大道」は存在が予測されるが、どのようなものかは分からなかったのである。そうであるから、とりあえずは感覚でとらえる他はないと老子はするわけである。


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