宋常星『太上道徳経講義』(15ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(15ー5)

それは「考えを巡らせている(猶)」であり、四方の隣人を恐れているようである。


これは大道を実践する者はあたかも、一羽だけで留まっている燕のようであると、強いて形容しようとしている。「考えを巡らせている」としているのは、一見してすぐに何かをしようとしているのでは無い様子をいっている。あえて何の考えもなくそれが行われることは無い、という感じを示している。これは前の「ためらい(予)」と大体において同じである。古の善を実行した修行者の心の徳は純全であり、どのような発言でも、どのような行為でも、全く適切であって、あえて自らを欺くようなことは無かった。少しでも謹みを欠くようなことがあれば、それを恐れることは、四方から見つめられているのと同じであった。そうであるから誰も見たり聞いたりしていなくても、その行いの全ては天の理のそのままであった。ただ大聖や大賢でなければこのような独りで居て愼みを実践する(愼独)ことはできないであろう。こうしたことを「四方の隣人を恐れているよう」としているのである。


〈奥義伝開〉「猶」とは「はかりごと」という意味でもある。意識が四方に及んで何かを企てている様子でもある。太極拳ではこのように四方に意識の及ぶことを「敷」字訣として教えている。太極拳や静坐の修行」により一定程度の意識の深まりを感じるようになると細かな心身の動きを自分にも感じるし、それが及んで他人にも感じられるようになる。これが「敷」であり「猶」である。一方、宋常星は注釈で「大学」にある「愼独」の意を用いて解釈をしている。これは儒教では特に重要なこととされていて、常に道と一体となった意識状態にあると、人が見ていない時でも「礼」の実践を怠ることがないとする。儒教であるべき理想的な人のあり方を示すものでもある。


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