宋常星『太上道徳経講義』(15ー6)
宋常星『太上道徳経講義』(15ー6)
それは「うやうやしい(儼)」のであり、あたかも礼にかなった動作(容)を行っているかのようである。
これは大道を実践する者の立ち居振る舞いについて、強いて形容している。古の善を実行した修行者は、外面はつつしみ深く(恭)、内面はうやうやしく(敬)あった。正しい心で誠意をもって、人との交わりは情に厚く、こだわりがなく(虚)、自分が前に出ることもない(静)。尊い客と対しているのではなくても、その行為は行き届いており、常に尊い客に対しているようにしている。それは大切な祭りの時に神に対しているかのようでもあり、常に「敬」や「謹」が保たれている。つまり「尊い客が居ない時がない」わけである。こうしたことを「うやうやしい(儼)のは礼にかなった動作(容)のよう」としている。
〈奥義伝開〉「儼」は「おごそか」であったり「うやうやしい」くしている「人」のことをいう(人偏がある)。またこれも前の「猶」で宋常星が挙げていた「愼独」と近いものである。本来「猶」も「儼」も祭祀において神を迎える厳粛な気持ちや態度をいうものであった。これは「神」つまり「大道」と一体となっているから常にこうした気持ちや態度をとることが可能となっていると考えることができる。老子の頃には太古の神祭りの迷信から一歩進んで「道」や「徳」といった倫理に依拠することで、こうした人としてのあるべき行為が保たれると考えた。