宋常星『太上道徳経講義』(14ー7)

 宋常星『太上道徳経講義』(14ー7)

縄縄(じょうじょう)たるは名ずくべからず。復(ま)た無物に帰る。

「縄縄」とは絶えることなく続いているということである。天地がいまだ形を持たない時、万物の生まれる兆しさえない時、そこは空空洞洞としており、何も存することなく真一の実理もないし、真一の大理も働いてはいない。これが「縄縄」ということで、間断することがないわけである。それは空虚で動きがなく兆しもない、元神も動いていない妙処である。こうした状況を名付けようとしても、名ずくべきところがないのであり、何らかの実態を指差そうとしても、指差すべき何らの実態をも見出すことができない。その有ることを言おうとしても、つまりはまた物のないところに帰してしまう。その無いことを言おうとしても、それは有るようであるがまた無いようでもあり、無いようであるがまた有るようでもある。そうであるから「永遠に続いているものは、それを名付けようとしても名を付けることはできない。結局は名を付ける物が無いということになってしまう(縄縄たるは名ずくべからず。復た無物に帰る)」ということになるのである。「縄縄」ということの意味を考えるに、「縄縄」とは絶えることがないということは既に述べた。物が有るようであるが、実際は無一物なのである。大道はその普遍的であること限りがない。そうであるからどこにでも及んでおり、無物の中にも入り込んでいる。つまりどこにでも入っており、その範囲は限ることができない。またそれを小さくとれば「一」となる。たとえ永続としての「縄縄」には形がないとしても、「縄縄」の理はある。この文章を読む人はこのあたりのことをよく考えて見るべきである。


〈奥義伝開〉大道は永遠に続いているが、それを実態として捉えることはできない、ということで、実態として捉えることができるのは後天の世界であるから、結果的に大道は先天の世界にあることになることになる。先天と後天は簡単に言えば対の世界で、これは「虚」と「実」として示されることが多い。また「無極」と「太極」とされることもある。後天の世界が限りのあるのに対して、先天の世界は永遠に続いて限りがない。すべてに始まりと終わりがあるのがこの世なのである。


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