宋常星『太上道徳経講義』(15ー8)

 宋常星『太上道徳経講義』(15ー8)

それは「盛ん(敦)」なのであり、まさに自然のまま(樸)のようである。


これは、邪心がなく全てに真心をもって対していることを、強いて形容している。「盛ん(敦)」とは「真の感情」である誠が欲望にさえぎられることなく働くことである。「自然のまま(樸)」は後天的な意識の働いていない状態であることをいっている。古の善を実践した修行者は、本来の天性が失われることなく、その真の心を持していた。それは失われることがなかったので視聴、言動においても、真の誠を欠くようなことはなかった。知にとらわれることなく、能にとらわれることなく、ただただ「自然」に行為を実践する。そこには是もなく、非もない。始めから天理によって「自然」に身を処するのみであるから、そこには欲望に制限されることのない「盛ん」な徳が表れ出ることとなる。それは木が大きくなって枝分かれする以前の状態であり、一本の芽が出た時の素朴で、それでいて本来の生命力が失われていない、こうしたことを「盛ん(敦)であるのは自然のまま(樸)のよう」としているのである。


〈奥義伝開〉「自然」のままであるのが最も生命力が強いとする考え方が前提となっている。老子は人であれば「嬰児」が最も生命力が強く、それは人の本来有する力を欠くことが最も少ないからであるとする。そして成長をするに従って、いろいろな欲望により生命力は減退して行って最後には「死」を迎える。静坐では「元気」とされるこうした根源の生命力に触れることを重視するが「元気」そのものは、先天の気であるとされ、人の持つ後天の「精、気、神」はそれから派生したものとされている。つまり、先天には「元精、元気、元神」があると考えるのであり、またこれらをひとつにして「元気」としてとらえられることもある。「元気」つまり先天の気をとらえることが重要であるのは、それが同じく先天の世界にある大道と同じものであるからに他ならない。つまり「嬰児」はまた大道にもっとも近い人間存在でもあるのである。老子は「嬰児」をして「柔」を象徴するものとする。また「柔」は太極拳で最も重視されるものでもある。つまり太極拳の「柔」は、単なるリラックスではなく、先天の「元気」の開かれることを示しているのである。


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