宋常星『太上道徳経講義』(14ー10)

 宋常星『太上道徳経講義』(14ー10)

古の道を執って、もって今の有を御(ぎょ)せば、よく古の始めを知る。これを道紀と謂う。

「執」というのは執って持つということである。「古の道」とは「先天」「先地」のことで、あらゆるものがいまだ形を持っていない時、混沌として「一の道」である時のことである。「御」とは治めるということである。「有」とはこの世のあらゆる有為の事物のことをいう。「古の始め」とは「帝の先」(先天)にあるような大道のことである。これを「古の始め」という。「道紀」は「道」こそが万物の綱紀であるということである。これらはすべて先に述べられることをまとめたもので、万法をして大道に帰するという意味なのである。「大道の妙」ということをよく考えてみると、これを「夷」ということもできるし、「希」ということもできる。「微」ということもできるし、「あきらかでなく昧(くら)くもない」、あるいは「無状無象」とすることもできよう。それは「無」や「虚」の中を探るようなもので、手を入れようにも入れるところはないし、体認しようとしてもすることはできないが、「道」はまた目の前にあることを忘れてはならない。またそれを悟ることは「至簡至易」であり、もしよく自分の「性」を内視することができ、何らの音や形に煩わされることなく、有無に捕われず、雑念の起こることなく、雑念の続くこともなく、何らの思いを持つこともなく、あらゆる形の捕われから脱して、つまりは「無状の状」「無象の象」となって自然と万法は混沌たる「一」に帰する、一切の大きなもの、細かなもの、精緻なもの、微細なものは無窮の色象であり、すべては道から生み出されている、そうであるからすべては「道紀」によっているのである。「道」を執ってそれを行なって「今これ有るを御す」となれば、この身において修されないものはなく、家において斉(とと)のわないものはなく、国にあっては治まらないものはなく、天下には平かならざるものはないことになる。まさにこれが「有」(後天)をしてその「無」(先天)を「体」とするということであり、その「無」(先天)を「体」として「有」(後天)を用いることの妙がここにあるのである。それを「古の道を修して、そうして今の物的世界に対する。このようによく古の始め(先天)を知ることを道紀を知るというのである(古の道を執って、もって今の有を御せば、よく古の始めを知る。これを道紀と謂う)」としているのである。


〈奥義伝開〉最後には先天の世界を知ることで、後天の世界を制御することが可能となると教えている。先天の世界は捉えることはできないが、確実に後天の世界の中において働きを持っている。つまり先天の世界では先天の働きしかないが、後天の世界では先天と後天の二つの働きが存している。多くの人は後天の働きだけを見て、なんとかそれを制御しようとするのでうまく行かない。そこに先天の働きがあることを知らなければならない。先天の働きとは「運」であるとか、「天」であるとかいわれるもので、それは「偶然」にそうなったと思われがちであるが、実はそうではなく、そこには確実に先天の働きが存している。こうした法則を「道紀」と老子は呼んでいる。無為自然であれば、道紀は法則通りに動いて万物を生かすわけである。


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