宋常星『太上道徳経講義』(15ー2)

 宋常星『太上道徳経講義』(15ー2)

昔の「善」を実践していた修行者は、微妙なる玄道について、深く識ることはなかった。


「修行者」とは初心の道の修行者のことである。「善」をよく実践することのできる修行者は、上にあっては天の道に通じ、陰陽の盛んになったり衰えたりする微妙な具合をよく知っている。また下にあっては地の理について剛柔や順逆の理をわきまえている。また中にあっては、人がどのように動くかを知っているのであり、その行為の大小、品格、利害の起こる機のことごとくを知り尽くしている。人の心の基本(体)と働き(用)のいたって微妙なところまでをも知悉しているのである。至道の奥義を「微」という。至道が知り難いことを「妙」という。至道の幽玄であることを「玄」という。至道に通じるのに妨げのないことを「通」という。根本としての至道は「真」を隠して知ることはできず、日常の場において至道に思いを及ぼすことはできない。もし至道の深いところを得て、至道への確信を手にしたならば、その微妙なるところに通じることができるが(玄通)、それは誰も余人をして知ることのできないものである。つまり大道の根本と働きを明らかに知ることはできないのであり、それはどうすることもできず、何らをも掴むことは不可能である。もちろんその奥義を伺うこともできはしない。そうであるから「昔の『善』を実践していた修行者は、微妙なる玄道について、深く識ることはなかった」とされているのである。


〈奥義伝開〉かつてよく「道(大道)」を実践し得ていた修行者であっても、それがどのようなものかを理解して行っていたのではないことが始めに示される。それはある種のニュアンスとして捉えられていた(玄通)に過ぎないのであり、それについては以下に述べられる。釈迦の説く「中道」もそうであるが、何かを実践しよとする場合、完全に理屈が分かっていなければ実践できないというものではない。また、そうしたことに足をとられるとかえって実践への力が削がれることにもなる。


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