宋常星『太上道徳経講義』(14ー8)

 宋常星『太上道徳経講義』(14ー8)

これを無状の状と謂う。無象の象、これを恍惚と謂う。これを迎えてその首を見ず。これに随いてその後を見ざる。

先の一節でも無について触れているが、ここでの「無状の状」「無象の象」とは何を言うのか。「無状の状」といったものがどのようなものか言葉で表現するのは困難であるが、要するにこれは「状(かたち)」が無いということであり、これは「状」というものの奥深い真実が述べられている。「無象の象」も、「象(かたち)」が無いということであって、「象」の奥深い真実を表している(状も象も同じ「かたち」の意であるが、あえていうなら「状」は内的な形、「象」は外的な形ということができようか)。そうであるから無極の元精は「状」を持っていないと同時に、「状」を持っていないということもないのであり、太極の実理は「象」を持ってはいないと同時に、「象」を持っていないということもないのである。こうしたことを「恍恍惚惚」と表現しているのは、智をしてそれを知ることはできないからである。

その根本となる先天の「気」の不可思議な実態としては、「頭」も無く「尾」も無いということがある。「前」を求めようとしてもそれは無く、「後」を求めようとしてもそれも無い。これらはつまりは「至真無妄の実理」であり、それは顔子の言う「これを仰げばいよいよ高く、これを鑚(き)ればいよいよ堅し。これをみれば前にあり、忽然として後にある」「これに從わんと欲するも、よるなきのみ」(『論語』子罕篇)のようなものなのである。大道の本来的な姿(本然)はこのようなものであると思われるが、そうであるから「無状の状、無象の象、これを恍惚という。これを迎えてもその「前」を見ることはできず、それに従ってもその「後」を見ることはできない(これを無状の状と謂う。無象の象、これを恍惚と謂う。これを迎えてその首を見ず。これに随いてその後を見ざる)」とされているのである。


〈奥義伝開〉ここでは『論語』の顔回の言葉が引用されているが、これは孔子の偉大さを述べたところに見ることができる。孔子は偉大でそれを捉えようとしても、まったく手が届かないというわけである。それと同じく先天の世界もそれを直接に捉えようとしてもかなうものではないことが述べられている。またここでは孔子が先天の世界に通暁していたことをも暗示していて、これにより儒教と道教の合一を説くことも可能となる。


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