宋常星『太上道徳経講義』(14ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(14ー5)

この三津者は、詰めるに致るべからず。故に混じえて一を為す。

(夷、希、微)の三者はこれを視ても見ることのできないものであり、これを聴こうとしても聞くことのできないものである。これを搏(う)とうしても搏つことはできない。「夷」にして「希」なるものであって、「希」にして「微」なるものである。これらが「三者ということになる。「詰めるに致るべからず」の「致」とは窮め尽くすということである。「詰」とは問うということである。つまりこれは窮め問い尽くすことができないということなのである。これがどのような意味かとういえば「混じえて一を為す」ということになる。三者の「理」は分けることができるが、道は分けることができない。つまりその「理」は分けることができるので、三者には「夷、希、微」の名があるが、その道の実際を考えてみると、その本源にはあれこれといったものはないのである。また分けたり合わさったりすることもない。「夷」として知るべきは「希」である。「希」とはつまり「微」である。「微」はまた「夷」でもある。三者は一であり、一はつまりは三である。三、一の妙とは無始無終であり、渾然として一体であるということにある。そうであるから「この三者は究極的にはどうかと窮めようとしても窮めることはできない。それば三者が本来は混じり合って一つのものであるからである(この三者は、詰めるに致るべからず。故に混じえて一を為す)」とされている。天地の元気がいまだ分かれていない、その始め、それは道の本体であり、存在している場所もなく、その形もない、耳目をして聞くとも見ることもできない。「致」すことができないというのは、雲が峰から出ても、それを捉えることができないのと同じである。月が湖に写って、それを手にすることができないようなものである。そうであるからそれを広げれば全宇宙(六合)に及び、これを縮めればまったく兆しもないようなところに至ることになる。


〈奥義伝開〉「夷」「希」「微」はいうならば老子集団での静坐の秘訣であったであろう。こうしたものは一字訣といって中国武術ではよく用いられる。しかし老子はそれらの字訣に捉われ過ぎてもよろしく無いと教えている。これは第一章にあるように「名の名とすべきは常の名にあらず」ということで、便宜的に一字訣のような「名」を用いることはあってもそれに縛られては真実を見失うというわけである。ただ静坐をしていれば感覚が微細になるので「夷」「希」「微」といった「かすか」な感覚が育つことになる。その場合、イメージや集中など意図的なことはしない方が良い。


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