宋常星『太上道徳経講義』(14ー9)

 宋常星『太上道徳経講義』(14ー9)

「大道の妙」ということを考えて見るのに、それは広くて無限である。大きくて限りがない。本来的に「前」もないし「後」もない。また「首」もないし「尾」もない。これえを迎えようとしても迎えることのできるところはなく、これに従おうとしても、從うことのできるところはない。本当に「端」もないし「緒」もないのであり、「朕(しるし)」もないし「兆(きざさし)」もない。元神の働きは絶えることなく、あらゆるものを包み込んで止まない妙がある。もしこうした天地の内奥を悟ることができたなら、「これ」はすなち「我」であり、「我」はすなわち「これ」であって、「これ」と「我」はもとは二つの存在ではない。これを「無体の体」という。これを「無相の相」という。これを「非色非空」という。これを「不動不静」という。

禅宗に入って、棒をして打たれても、それを気にすることもない。喝と気合を入れられても、どうということもない。ああ、「これ」に覚醒すると、「これ」はどこに求めるのではなく目の前にあることが分かる。内丹道では内丹が得られようとしていても、それを気にしない。これを聴けども聞くことはないし、これを搏(う)ってもそれを得ることはない。あるはこれを迎えてもその「首」を見ることはなく、これに随(した)がっても、その「尾」を見ることはないなどと言われるのは、すべて天地の根源である渾沌(無極、一元)から太極へと分かれる極の道の妙なのである。すべての修道の人をして、これによって悟りを得るべきは「天地自然の元気がいまだ分かれていないことの理」であり「父母から生まれる前の自分」にある。それには混(ま)じって「一」となる深い意味がある。すでにこの「理」を得たならば、万法は「一」に帰してしまう。自分は「誰の子」か知らないし、その存在(有)の意味を知ることもないし、その非存在(無)の意味を知ることもない。これを「天門」というが「天門」というきまったものがあるのではない。万物が有無のおいて出入りをするだけである。そうであるから聖人は「無有の中」を深くその内に蔵しているのである。


〈奥義伝開〉先天から後天への変化、無極から太極への変化、その「機」をよく知っているのが聖人である。これは禅で厳しい修行をしても、内丹道の瞑想に熟達しても、それらはすべて後天の神の働きであって、先天の神つまり「元神」の働きではない。元神と神との関係、元精と精との関係、そうしたものを知る必要があるが、それを直接に知ろうとしてもそれを捉えることはできない。「父母から生まれる前の自分」は禅でよく言われることで「父母未生以前の本来の真面目」などとも言われるが、要するにこれは先天の世界をいうものである。また「『誰の子』か知らない」というのは『老子』の第四章に出ている。これは実際の父母をいっているのではなく、その父母の先に先天の世界があり、そこから人は生まれ出て来ていることを示している。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(8)

道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(6)

道徳武芸研究 八卦拳から合気道を考える〜単双換掌と表裏〜(4)