宋常星『太上道徳経講義』(15ー4)

 宋常星『太上道徳経講義』(15ー4)

それは「ためらい(予)」であり、冬に冷たい川を渡ろうとする時のようである。


これは大道を実践する者が、事に臨み物に接した時のことをあえて形容している。急いで行おうとはしない、それを「ためらい」とする。つまり、行うのを躊躇しているということである。かつての道の修行者は、つつしみ深く、その才能を顕わにすることなく、事に臨み物に接した時に、敬謹(けいきん つつしみふかく)であった。あえて何も考えずに何かを行おうとするようなことはなかったのである。それは寒い冬に川を渡る時に冷たい水に入るのを「ためらう」ようなものである。骨までしみるような冷たさのある水に入るのは嫌うべきことであるし、あるいは水の深いところがあってそこに沈んでしまうことも注意しなければならない(夏であればたとえ水の中に沈んでも泳いで浅瀬にたどり着くことができようが、冷たい水の中では体が動かないので簡単に溺れてしまいかねない)。そうであるから「ためらい」があるのであり、あえて進もうとはしない、ということになるのである。止むを得ずして歩みを川に入れるという具合である。この止むを得ずというところを形容したのが「ためらい」という語になっている。そうであるので「それは『ためらい』であり、冬に冷たい川を渡ろうとする時のようである」としてここに述べられているわけである。


〈奥義伝開〉大道の体現者は軽挙妄動することはない、ということである。何か大きな事が起きると世論が沸き立つことになる。そうした時には注意が必要で、往々にして熱気に流されて誤った選択をしてしまうことがある。個人にあっても危機的状況にある時には「余裕」を持ってじっくりと構えていなければならない。儒教ではかつてはこうした時に易を立てたがそれは、一旦心を鎮めるために他ならならい。日本なので寺社に籠もった(数日滞在した)のも同様で、それはむやみな行動をしないための知恵であったのであり、易や寺社に籠もること自体に意味があるわけではない。それが後には占いで未来を予測しようとしたり、神仏の加護を受けられるとする迷信として誤解されるようになる。


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