宋常星『太上道徳経講義』(15ー7)

 宋常星『太上道徳経講義』(15ー7)

それは「とける(渙)」ようであり、氷がまさに溶けようとしているかのようである。


これは大道を実践する者は、心が溶けようとしているのであるとして強いて形容したものである。「とける(渙)」とは形がなくなるということで、つまり元の形を留めないということであって、今あることに強い執着を持たないということである。古に善を実行した修行者は、一切の有為の事象を「水の上の泡」のように見なしていた。つまり有為のものは長続きすることはないことを知っていたのである。そうであるからそれにとらわれることはなかった。あらゆる執着の中に沈んで行われることは、あたかも夢の中の幻のようで、それが虚妄であることをよくわきまえていた。そうであるから有為の行為に強く執着することがなかったのである。心において見られる「幻影」は、全てが幻であって、それは徐々に脱して行かなければならないものである。そうしたものを「氷がまさに溶けようとしている」と形容した。次第に溶けて氷が無くなるように、有為の執着から離れて行くわけであり、有為の行為に留まることはなくなるわけである。こうしたことを「とける(渙)のは氷が溶けるよう」としている。


〈奥義伝開〉「渙」は「水の変化する様子」を原義として持っている。大道とは普遍的な存在であるので、心がひとつに固着してはそれを実践することはできない。しかし、人はいろいろな環境により、心の執着を得てしまっている。それを完全に脱却することは難しいのであるが、できるだけそうしたもののとらわれから脱しようと思うことが重要となる。世の中の「あたりまえ」は「あたりまえ」では全くない。時代によってもそうしたものは大きく違っているし、場所によっても同じではない。現在は往々にして「グローバル化」が良いように言われているが、必ずしもそうでないことは少し問題となっている事柄の背景を調べてみれば容易に分かるものである。


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