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第五十章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第五十章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 生を出て死に入る。 〔人は生まれて死ぬるものである。こうした当然のことが分かっていない人が多い〕 「出」とは世俗から離れて、この世を離れることである。「入」とは混迷の中に落ち込むことである。 生の徒は十に三有り。死の徒は十に三有り。人、生にいくも、動(めぐ)りて死地にいく者は十に三有り。 〔生きることに執着を持って享楽的に過ごす者は十人の内に三人くらい居る。死後の世界に執着をもって死後の世界に希望をつないで現世の苦しみから逃れようとする人が十人の内に三人くらい居る。健康に気をつけて長生きをしようとする人でも、どうにかすると不幸に巡り合ってしまう。こうした人も十人の内に三人くらいは居る〕 ここでは十(人)の内という言い方がなされている。生きることに執着する者は十人の内に三人である。死ぬことに捕らわれている者も十人の内に三人居る。死地に入ってしまう人も十人の内に三人居る。残りの一人はつまり「不生不死」の道にある。 それ何故か。その生生の厚きをもってなり。 〔このように生に執着し、死に執着する者が多いのは人が皆、生きようとしているからである〕 生や死にとらわれるのは、人が生死を逃れることができないからである。そしてとにかく生きることに無闇にこだわるので、生きることに過度にこだわるようになるのである。 蓋(けだ)し善く生を摂する者は、 〔おおよそ善く生きるということを知っている者は〕 「生を摂する」とは、つまり養生をするということである。 陸を行きてはシ虎に遇わず、 〔陸にあっては野牛や虎に遭遇することがない〕 「シ」とは野牛のことである。 軍に入りては甲兵を避(はばか)らず。シもその角を投ずるところ無く、虎もその爪を措くところ無く、兵もその刃を容れるところ無し。それ何故なるや。もってその死地無きなり。 〔軍隊に入れられても甲冑を付けられるような地位に就くことができる。野牛もその角を突き立てることがなく、虎もその爪を立てることがなく、兵隊も斬りつけることがない。それはどうしてこうした不幸な死から逃れることができているのか。それは本来、不幸な死に遭遇するということがないからである〕

道徳武芸研究 武術と武道(3)

  道徳武芸研究 武術と武道(3) かつて中国武術の散打の試合において「套路の風格が出ていない」というあまりにも幼稚な批判が少なくなかった。またそれを受けて「套路の風格」を出して空手と試合をしてひどい負け方をした様子がテレビで放送されたこともあった。ただ空手においても「型は試合に使えない」ということがよく言われており、「型の稽古よりもサンドバッグを打った方が良い」などとされることも多くなっている。型稽古(套路の稽古)は本来が中国の「道」の考え方から生み出されたものであって、それが「結果(この場合は実戦)」でないことは既に述べた通りである。套路はあくまで「過程」であって、例えば攻防という「結果」においては、それぞれの状況に応じて「結果(実際の攻防の動き)」は生み出されなければならないことになる。あえていうなら実際の攻防においてはむしろ表面的な「套路の風格」などは出ない方が良いのである。老子は「(本質を知ることのできない人は、本質的な展開を見てそれが表面的な「本質」とは異なると言って笑うものである。実際において表面的な「本質」が用いられることはない。そうであるから本質を知ることのできない人が笑うようであれば、それは真の意味での本質が用いられていることの証左ともなり得る)下士、道を聞けば、これを大いに笑う。笑わざれば、もって道と為すに足らず」(第四十一章)と教えている。ユーチューブでも見ることのできる呉公儀と陳克夫との試合においてもよく「太極拳の風格」が出ていないとされるが、最初に呉が陳の鼻を打つことができ、その流血が止まらないことが試合の継続を不可能にさせたのである。こうした攻撃が可能であったのは呉家の前傾姿勢にある。呉家の前傾姿勢は重心を足の後ろ(踵の方)ではなく前(指の方)に置くので、攻防において間合いがかなり近くなる。このために陳は中心の防御ラインを簡単に突破されることになったわけである。太極拳の「道=本質」を体得していた呉公儀は套路に拘泥することがなかったので、状況に応じて太極拳の「道=本質」をより良く使うことができたのであった。

道徳武芸研究 武術と武道(2)

  道徳武芸研究 武術と武道(2) 日本では「道」は「心の修養の方法」というように捉えられている。単に「術」を学ぶだけではなく、その奥にある「心」の涵養が大切でありそれを「道」とするわけである。つまり武道であれば「武」が術で、「道」が心ということになる。なぜ中国では「武道」や「茶道」というような言い方がないのか。それは既に述べたように「道」が武術や茶芸の枠を超えたところにあるものであるからに他ならない。そうであるから「道」に「武」や「茶」といった限定を付することはできないのである。このため「武道」や「茶道」という言い方そのものが存しえないことになる。「道」とは武術や茶芸を通じて涵養される「何ものか」なのであり、それはいうならば「X」ということと同じなのである。そうであるから「道」がどのようなものであるかの定義付けが行われることはなかった。つまり中国の修行においては「結果」を限定しようとはしないのである。これに対してインドでは「結果」を限定してそれに至ろうとする。このため仏教では悟りという「結果」の定義が「論」として緻密になされることになったのである。中国武術で一人の形が中心であるのも、動きの意味を限定しない、つまり「結果」を限定しないシステムであるためである。これに対して日本のように常に相手を付けた形であればその動きの「結果」は一定したものとなってしまう。また日本では免許皆伝などのこれも「結果」に至ることが重視されるが、中国では「入室弟子(拝師)」のような「入門」が重んじられる。「入室弟子」とはその門派を学ぶ準備が出来ているという意味であり、それ以降、どのような修行をして、どのような境地に至ったか(結果を得たか)は個々人それぞれということになる。

第四十九章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

  第四十九章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】 この章では、聖人がこだわりの心を忘れることによって生じることの妙が語られている。心は無常であるが、人々は心を何か確固たるものとして捉えようとする。心の実際を例えるならばそれは「鑑」ということになろうか。鑑には決まった映像が描かれているわけではない。物に応じて形を表すだけである。そうであるから「善なるは、吾これを善とし、不善なるも、吾またこれを善とする」となるのである。善、不善を受け入れるかどうかは(鑑と同様に)自分にはない。そうであるから「吾」は他人が善とするところを善とする。あらゆるものを善として受け入れるのでこれを「徳善」と謂われることになる。「信ずるは、吾これを信じ、不信なるも、吾またこれを信ずる」とあるのも、信ずるか信じないかは自分の判断ではないのであり「吾」は判断することなく、これを信じる。そうであるから「徳信」と謂われることになる。まさに聖人は「チョウチョウたる」ものであり、人々の心を聖人の心はすべて受け入れている。何を「善」とし、何を「信」ずるかは人によって自ずから異なるのであり、「不善」や「不信」であってもそのすべてが棄てられるべきものではないのである。まさに人々は「その耳目を注ぎ」て聖人の好悪を知ろうとするのであるが、聖人は「一」をして「嬰児」に遇うのである(つまり善不善、信不信を超越して「一」なる「道」の境地に入り、それを実践することで道にも最も近い嬰児の行動に等しい徳の実践をおこなっている)。そうであるから聖人は誇ることもないし、これにあって憤ることもない。こだわることなくすべてを忘れてしまう。こうなれば天下は泰平となるのである。 〔あらゆる考え方を老子は受け入れるが、それを「孩(あや)す」とする。あらゆる考え方を子供の言うことのような高等的な態度に留まって対している。こうした心境は神秘学徒によく見られる〕

第四十九章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第四十九章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 聖人に常心無く、 〔聖人には固定された考えはない〕 心に主とするものを持たないのである。 百姓の心をもって、心と為す。善なるは、吾これを善とし、不善なるも、吾またこれを善とするは、徳善なればなり。 〔あらゆる人の考え方を一応は受け入れる。善いとされることは、自分もそれを善いものとして受け入れる。良くないとされることも一旦はそれを善いものとして受け入れてみる。こうした考え方が「善いとされることの本質を知ろうとすること」になる。〕 善であっても、不善であっても等しく扱うのが徳であって、独善的であってはならない。 信ずるは、吾これを信じ、不信なるも、吾またこれを信ずるは、徳信なればなり。 〔人々が信じていることは自分もそれを信ずる。人々が信じていないことであってもそれをいたずらに信じないということはない。それは「信じられていることの本質を知ろうとすること」になる〕 多くの人と信を共有するのが徳なのであり、独善的に信じているのではない。 聖人は天下に在りて、チョウチョウたるを天下と為し、その心を渾(まじ)らす。 〔聖人はこの世にあって、心安らかに諸事に対するのであって、そうすることで賛成する立場の人の考えも、反対である立場の人の考えでも一旦、受け入れることができるのである〕 「チョウ」とは安らかとなって留まることがないということであり、他人と争うことがなくなる。 百姓は皆、その耳目を注ぎ、聖人は皆、これを孩(あや)す。 〔人々はよく注意をして他人が自分と同じ考えか、そうでないかを見極めようとするが、聖人は常に対立することなく、あらゆる考えを一旦は受け入れるのである〕

道徳武芸研究 武術と武道(1)

  道徳武芸研究 武術と武道(1) 中国では武道という言い方はしないが、武術が語られるシーンでは「道」について触れられないということはない。武術の目指すところは「道」と一体となることであり、武術の修行は「道」を外れたものであってはならないとされるのである。このようにある意味で日本よりも武術の稽古において「道」が重視されることが多いのであるが、日本の武道のように「武」と「道」とが結びつくことはない。「道」は武術という「術」を超えたところにあると考えるのである。かつて八卦拳に入門しようと何静寒老師のところに初めて伺った時に、老師は「重道ということがある。これが八卦拳を修行する上では最も大切なことである」と言われて感激したことを覚えている。「重道」は「道を重んじる」ということであるが、これは「尊師(師を尊ぶ)」と一緒になって「尊師重道」として語られる。老師は「尊師」をあえて言われなかったのでその謙虚さに感動を覚えたわけである。中国では「師」を「道」の体現者と見なして、これらを一体のものと考える。中国での武術修行は「術」を通して「道」の体現者としての「師」と交わりを持つことで術を超えた道を体得しようとする。この過程は「守、破、離」として教えられることもあり、「守」は術を体得する段階で、「破」では術を通して師より「道」へと入ることになる。ここにおいて「術」のこだわりから脱するわけである。最後は術も師も超えて自由に独自の境地を目指す「離」となる。

第四十八章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

  第四十八章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】 この章では大道は有為には存していないということが述べられている。学とは知を求めることである。そうであるから見るものは日に日に増えることになる。道を為すとは蒙昧を去ることである。そうであるから見るものは日に日に少なくなる。つまり「分からないことを無くして行く(損し、また損す)」ようにすれば無為に至るのである。それは恭(つつし)むことによって得られるのであり、万物の生成のままに任せることでもある。そうであるから「自分の意図しないあらゆることが行われている(為さざる無し)」ことなるのである。「天下を取る」とは天下が自分に帰するのを受け取るようでなければならない。そうであるから「どんな時も意図的なことはしない(常に事無きをもってす)」のであり「もし意図的なことをしたならば(その事有るに及べば)」つまりは問題が噴出してくることになる。そうであればどうして「天下を取るに足」るであろうか。 〔ここで老子は情報は力であることを明確に述べている。適切な情報を得ることで天下を取ることも可能となる実例はビジネスの世界ではよく見られることである〕

第四十八章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第四十八章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 学を為せば日に益(あふ)れ、 〔学習をすれば日々情報は増えていくことになるが、単に情報が増えるだけでは本質を掴むことはできない〕 どんどん知ろうとするわけである。 道を為せば日に損す。 〔道を実践する、つまり物事の本質を掴もうとするのであれば、余計な情報を日々除くことに努めなければならない〕 その蒙昧なる部分を無くして行くのである。 これを損し、また損し、もって無為に至る。 〔余計な情報を除きに除いて本質を得ることが最も大切である。無闇に多くの情報を得ようとするのではなく、本質でないと思われる情報を排除する。そうすることで本質を知ることができる〕 蒙昧から脱することができれば完全なる真を得ることができる。つまり無為に至るのである。 しかして為さざる無し。 〔本質的な情報であれば、それが量的には少ないものであっても充分に知るべきをことを知ることが可能となる〕 無為であれば静となる。静であればいろいろな動きがそこから生まれる。 故に天下を取るは、常に事無きをもってす。 〔つまり最も重要な情報を知ろうとするのであれば、むやみに「生」の情報を多く集める必要はなく、論理的な思考の批判によって選別された情報だけを選んで集めれば良いのである〕 「天下を取る」とは天が民に帰するということである。これを得るのは以上に述べられたようなこと(無為)による。それ以外にはない。 それ事有るに及べば、もって天下を取るに足らず。 〔雑多な情報がいくらあっても、それで普遍的な根本原理を知ることはできない〕 もし、天下を取ろうとする心があれば、これを取る行動に出るであろうが、実際に天下がその人に帰することはない(無為でなければ天下を取ることはできない)

道徳武芸研究 鉄砂掌を考える(6)

  道徳武芸研究 鉄砂掌を考える(6) 鉄砂掌は優れた練習法であるが、ある種の「超人願望」が投影されることもあって誤った練習がなされていることが多いようである。例え競技組み手であっても、多く徒手での攻防を行う環境において巻藁で拳を固めるよりも、サンドバッグを打った方が良いとされるようになった事実は、掌を鉄と化するような練習が「実戦」的ではないことを実証している。これは競技試合すらすることのない「武術」家たちからの批判よりも重視されるべきものと思われる。このような「超人幻想」を抱く人は古武術や中国武術には少なくない。現代武道でも古武術や中国武術でもその根底にある「理」は何ら変わりのないものなのであり、どのような「妄想」の入り込む余地も本来どの武術、武道にも存していないのである。

道徳武芸研究 鉄砂掌を考える(5)

  道徳武芸研究 鉄砂掌を考える(5) 木人の鍛錬も広く言うならば鉄砂掌に属するとみることが可能である。このことは既に述べたが、こうした観点からは相撲の鉄砲も同様な鍛錬とすることができるであろう。鉄砲は鉄砲柱に向かって掌を打ち出すのが基本であるが、この衝撃に耐えることで体幹を鍛えることも可能である。木人は調整により余裕「あそび」を入れることができる。この調整を適切に使うことで、衝撃の強さを適切なものとして、受けから技への連携をより密接なものとする。また同じく形意拳では細い木の枝を用いて腕で打つ練習をする。これも適切な太さの枝を探すことが肝要とされる。八卦拳では互いの腕を打ち合うことで衝撃への稽古を行う。もちろん可能であれば、こうした相手を立てて練習をした方が良いし、相手が上級者で適切な打ち方をしてくれると理想的ということができるであろう。つまり鉄砂掌はより人体に近い衝撃を作り出して行うのが理想なのである。

第四十七章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

  第四十七章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】 この章では、「性体を用いれば充分である」ということについて述べている。天下は大きいといっても、人が居て物があるのに過ぎない。家から出ないでも、天下の状況を知ることはできる。天の道は隠れているが、それは陰陽の変化であるに過ぎない。そうであるから窓を開くことがなくても、世の中の様子を知ることはできるのである。もし、外に出て天下の道を知ろうとしても、行くことのできた範囲で知ることができるだけである。そうであるから「その出ることいよいよ遠ければ、その知ることいよいよ少し」としている。聖人は外出などすることなく、(論理的思考である)道を本として天下の様子を知ることができるのである。見ることはなくても、心(つまり思考)によって知ることができるのである。そうであるから天下の事は、(論理的思考によって類推することで)すべて知ることができるのである。(論理的思考を敷衍する)天の道の妙は、どのような物であってもそれに名を付すことができる(つまり類推することで「事実」を知ることができるのである)。何でもよく知っていて、よく名付けること(つまり類推すること)ができる。そうであるから「為さずして成る」としている。それは自然から教えを受けているということである。 〔論理的思考の重要さをここでは教えている。論理的思考とは普遍化できる理論によることである。そうであるから「そういうことになっている」「それは当然のこと」などということは受け入れられない〕

第四十七章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第四十七章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 戸を出ずして、天下を知る。 〔遠くに出向いて情報を得ることが無くても、世の中のことをよく知っている〕 静かに家に居て天下の情勢に通じているのである。 マドを窺わずして、天道を見る。 〔広く情報を得ようとしなくても、世の流れの根底にあるものを知ることができている〕 必ずしも天を仰ぐことがなくても、天体の運行の理を知っていれば天の様子が分かるのである。 その出ることいよいよ遠ければ、その知ることいよいよ少し。 〔遠くまで出かければ出かけるほど、雑多な情報を集め過ぎて真実を知ることがかえって困難になる〕 天地は全体の形を見ることはできない。それは見える範囲でしか天地の形を知ることはできない。たとえ遠くまで行っても、見える範囲は限られたものとなる。 これもって聖人は行かずして知る。 〔このように過度に多い情報はかえって真実を知るための障害となることを「聖人」は知っているので、そうしたことはしない〕 道と自ずから一体となっていれば、遠いところのことでも知らないということはないのである。 見ずして名づく。 〔実際に見ないでもそれが何であるかを類推することができる〕 心が通じていれば、どのような物でもその名を知ることができる。 為さずして成る。 〔実際に行わないでも、イメージの中で物事を実現することができる〕 道がここに至れば、何かをすることがなくても、自ずから功をなすことになる。

道徳武芸研究 鉄砂掌を考える(4)

  道徳武芸研究 鉄砂掌を考える(4) よく「太極拳は内功を練るので鉄砂掌を練習する必要はない」などと言う人もいるが、これは妥当ではない。あくまで鉄砂掌は攻撃時における衝撃に耐える体を作るためのものであるから、太極拳でも鉄砂掌の練習は行う。一つ奥義を述べるならば、太極拳の鉄砂掌の鍛錬では掌が砂袋などに当たった瞬間に肘の力を抜くことが肝要である。こうして掌を重くするような感覚を育てる。「内功があれば鉄砂掌を練らなくても良い」とされる風潮の背景としては、鉄砂掌を鍛えると目を悪くすることなどの「弊害」が語られることがあげられる。このため「秘薬」を用いなければならない、などと教えられることもあるが、鉄砂掌の「秘薬」はあくまで消毒以上の効果を期待されるものではないのである。八卦拳では「逆剥けになったら鉄砂掌をしてはいけない」とされている。これ程に傷口から病原菌の入ることを警戒していたわけである。一方で目を悪くしたり、指がうまく動かなくなる、肩が上がらなくなるなどは神経の異常によるもので過度な鍛錬が原因とされる。あくまで鉄砂掌は衝撃への耐性を得るものであるのに、掌を鉄の如くにするものと誤解して衝撃を与えすぎると思わぬ障害が生まれることにもなる。現代であれば鉄砂掌の「秘薬」はアルコール消毒をすれば充分であろう。

第四十六章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】 

  第四十六章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】   この章では欲が道を害することについて深く述べられている。「戒(いましめ)」をして足るを知る。天下に道が実践されていれば民は安心をして耕作をすることができる。たとえよく走る馬が居たとしても、これをして(戦いに用いることはなく)田の肥やしを運ぶ車を引かせるだけである。天下に道が実践されていなければ、戦争が起こることになる。「戎」の馬が郊外に養われ、民は安らかに生活をすることもできない。どうして戦争が起こるのかを考えると、それはすべて欲心が起こることによって初められるのである。そうであるから「罪、欲するべきに大なるはなく」のであり、「欲すべき」から「足るを知らず」というところに至るのである。そうであるから「禍、足るを知らざるに大なるはなし」なのであり、足るを知らないことによって、欲するものを必ず得ようとするものであり、怨みや咎はそれによって生じる。そうであるから「咎、得んと欲するより大なるはなし」なのであり、そうであるから「足るを知らざる」者は、足りていても、不足を覚えるものである。そうであるから「足るを知って充分と思うことができれば、何時も不足を感じることはないのである(足るを知りて足りたるは常に足るなり)」となるのであることを知らなければならない。 〔足るを知る、とはただ現状に満足することではない。本当に必要なものは何かを知って、それを得ることである。そうでなければ心の安定を得ることはできない。それは争いなどをして相手を収奪することで果たされることはない。収奪し、収奪される人々の居る社会は正しい社会、道が行わている社会ではないのである〕

第四十六章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第四十六章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 天下に道有れば、却って走馬はもって糞をする。 〔天下に道が行われていれば、軍用に使われる走馬はもただ肥やしとなる糞をするくらいしかすることがない〕 「却」とは去り行くことである。「糞」とは田を肥やすものである。 天下に道無ければ、戎馬、郊に生まる。 〔天下に道が行われていなければ、精悍な異民族の馬が城塞都市の郊外に育てられて攻撃の機会を待つことになる〕 「戎馬」とは戦闘馬のことである。「郊」とは街の周囲の外のことである。 罪、欲するべきに大なるはなく、 〔罪に陥る原因としては、欲望を持つことより大きいものはない〕 心に欲するものを見たならば、その欲求を満たさないではおれないものである。 禍、足るを知らざるに大なるはなく、 〔禍を受ける原因としては、何が必要不可欠なのかを知らないことより大きいものはない〕 「足るを知らざる」とは求めて止まないことであり、これは必ず人を害するものである。 咎、得んと欲するより大なるはなし。 〔咎を受ける原因としては、何かを得ようとする欲望を持つより大きいものはない〕 欲すれば必ず得たくなるものであり、その欲望はどんどん肥大化して行く。 故に足るを知りて足りたるは常に足るなり。 〔そうであるから何が必要不可欠かを知って、それを得ていたならば、何時でも不足を覚えることはない。もし必要よりも多くを持てば失うことへの不安を覚える。もし必要なものが得られていなければ不安となろう〕 一なる性(本来の心)においては欠けていることも無いし、余っているものも無い。そうであるから人はよく性において安らかで居ることができるのであり、生活をしていて何ら不足を感じることはないのである。

道徳武芸研究 鉄砂掌を考える(3)

  道徳武芸研究 鉄砂掌を考える(3) 砂袋はまた吊り下げて使うこともある。これはバレーボールくらいの砂袋をいくつか周囲に吊り下げて打つ練習をするわけである。こうした練習は拳や掌を硬くするというより、いろいろな当て方を練習してその衝撃に対して体をどのように使うかの練習が主目的となる。かつては「巻藁=拳タコ=必殺拳」という空手幻想が広く存していたが、ここ何十年かの間に巻藁で拳タコを作るよりはサンドバッグで間合いや正確な打ち方を習得した方が良いと考えられるようになってきた。これは逆に本来の「巻藁」の形に戻ったということができるのかもしれない。つまり鉄砂掌としての「巻藁」は拳を固めるためのものではないということである。一方、打った時の衝撃だけではなく、相手の攻撃を受けた時の衝撃にも耐える必要がある。それを練習するのが木人である。木人は詠春拳が有名であり、秘伝の練功法とされているが、それは打ち方に極意があるということである。詠春拳は相手の攻撃を受けると同時に相手の体軸を崩すことを理想とする。そうであるからむやみに強く受けると相手の腕が離れてしまうので、適度な粘りのある受け方でなければならない。粘りといっても、詠春拳では太極拳とは反対に力を入れることで粘りを作り出す。このように鉄砂掌では「当て方」が重要なのであって、当てた時に力を抜く、入れる、手首を曲げる、肩から打つなどいろいろな秘伝、秘訣が門派によって存している。

道徳武芸研究 鉄砂掌を考える(2)

  道徳武芸研究 鉄砂掌を考える(2) 鉄砂掌でもっとも代表的な煉功法は台の上に砂などを詰めた袋(砂袋)を置いてそれを打つものであるが、他には桶や鍋の中に砂や豆を入れてそれを打ったり、掌を挿し入れたりする方法もある。ちなみに八卦拳では緑豆を桶の中に入れて使う。門派によっては、これを砂で行う場合もあり、また「上達」すると鉄の玉に替えると教えることもある。かつて空手の貫手で畳を貫通させるパフォーマンスを行う人も居たが、これは「漫画」の世界のことで、指先はいくら鍛えても畳を貫通させる程、硬くはならない。八卦拳でいうなら緑豆以上の堅いものへの耐性を得る必要はないといえるであろう。これは相手の体に指が当たった時に、その衝撃で怪我をしない程度の練習ができていれば良いということである。つまり掌で打ったり、拳で打ったりして、相手の体に当たった時にその衝撃に耐えられれば充分なわけである。砂袋を用いる練習には他にも柱などに結びつけて、それを打つものもあるが、これは空手の巻藁と同じといえよう。中国では砂袋でも特別な所の砂でなければならないとか、袋は犬の皮で作るのが良いとされることもある。柱などに結わえ付ける方法はひとつには「姿勢を作る」という目的もある。本来「巻藁」は弓術で使われていたもので、ごく近いところに藁の束を置いて姿勢の矯正を練習したのであった。こうしたことからすれば空手の巻藁も、拳を強くするものというよりも姿勢を作ることが第一義であったのではないかと思われる。

第四十五章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

  第四十五章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】 この章では「虚静」の妙について述べられている。成るものがあれば、欠けるものもある。大いに成ると、常に欠けているように見えるものである。盈(みつ)ることがなれば、そこには虚なる部分が存していることになる。大いに盈れば常に虚があるように見える。そうであるから、大いなるものにおいてその用は窮まることがないのである。大いなる直ぐさは常に屈しているように見える。曲がっているものこそが完全なのである。大いに巧みであれば常に拙っているように見えるものであるが、それは自らを誇ることがないためである。大いに弁ずるものは常にうまく喋れていないように見えるものである。しかし、そこには理が通っているので、多くの情報を伝えることができている。現に寒暑は存しているが、これは天地の気によるものである。これに対して人にあっては躁(あわただ)しく動くことで寒さに勝つことができる。静を得ることができれば、熱に勝つことができるであろう。ある時は躁しく、ある時は静かにするというのは、人の身において正しい行為とは言えない。より適切な状態があるのであり、それは「清静」であって、天下においてあるべき正しい状態に自ずからなることができるのである。ここにおいて「成、欠」「盈、虚」といった状況にとらわれる必要があろうか。

第四十五章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第四十五章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 大いに成れるは欠けたるがごとく、それを用いてもやぶれず。 〔本当に「完成」されたシステムには、どのような変化にも対応可能な不確定な部分が含まれているので、不完全であるように見える。しかし、こうしたシステムを用いなければ「完全なるシステム」はすぐに破綻してしまうものである〕 事が成れば、それを壊そうとする者が必ず出てくる。意図的であることを「成」としている。 大いに盈(みつ)るは、それを用いても窮まらず。 〔満たされていると何も入らないように見えるが、例えば豆で一杯なコップであっても、砂を入れることができるように、見方を変えればいろいろなものが入るものである〕 器を満たせば、次には必ずこぼれてしまうものである。もし、そこに虚(冲)があればそれが自然に満ることはない。 大いに直ぐなるは屈したるがごとく、 〔直と屈は相容れないようであるが、曲がっているものもそれを細かく分ければ直線に近くなる〕 理屈からすれば、曲がっているものもその角度が浅ければ真っ直ぐに近くなる。 大いに巧みなるは拙なるがごとく、 〔本当に使えるのは簡単なシステムなのであり、複雑なものは有用ではない〕 自然の物は拙劣であるようであるが、実は巧みに出来ていることが分かる。 大いに弁ずるは訥なるがごとく、 〔的確なことだけを述べて多くの情報を提示するのが適当なのであって、贅言を弄してむやみに延々語るのは適当ではない〕 「訥」とは言葉を口に出さないような状態である。理屈が通るならば訥であっても雄弁であるということになる。 躁は寒に勝ち、 〔体を動かせば寒さに勝つことができる〕 「躁」では気の働きが盛んであるので、よく寒さに勝つことができるのである。 静は熱に勝ち、 〔静かにしていれば暑さに勝つことができる〕 「静」なれば気は治まることになるので、よく熱さに勝ることができる。 清静なるは天下の正たり。 〔このように躁や静を使い分けていたのでは、なかなか間に合わない。ただ清らかな静を得ることで自然に「躁」や「静」が使えるようになるのが適当である〕 「清」は濁に勝る。「静」は動に勝る「清静」の理をもってすれば、天下は自ずから安らかとなる。

道徳武芸研究 鉄砂掌を考える(1)

  道徳武芸研究 鉄砂掌を考える(1) 鉄砂掌は掌を鍛えて鉄の如くにすることで、この功の成就を得た人に打たれれば骨までも砕かれてしまうという。英語ではこれを「lron palm」と訳されることが多いようであるが、それであれば「鉄掌」となる。ただ鉄砂掌の「鉄」は「掌」にかかるのではなく。「砂」にかかるのであり、鉄砂掌は「鉄のような砂で鍛えられた掌」と訳されなければならない。ただ、こうしたことは大体において鉄砂掌にまつわる少なからざる妄想、伝説の類のひとつといわなければならないであろう。かつて香港の李英昴は「百日速成鉄砂掌」で有名を馳せていた。それは従来、秘伝とされていた鉄砂掌を本とビデオ、そして「秘薬」も付けて販売したためである。鉄砂掌では特に「秘薬」が重視されていて八卦拳の宮宝斎師爺は虎の骨髄から作った「秘薬」を大陸から持って来ていたと聞いた。弟子の何静寒老師たちはこの「秘薬」を使ってしばらく鉄砂掌の練習をしたが、台湾ではそうした「秘薬」を作ることはできないので、薬がなくなると練習は止めた、と話されていた。日本でも『鉄砂掌』(1983年)なる本が出版されたこともあった。また鉄砂掌は「秘薬」を得て練習をしなければ心身に異常が生じるとも言われている。ただ鉄砂掌を練っても掌そのものが強くなるわけではない。ただ打撃に対する耐性が生まれるだけである。耐性が生まれることを「強くなった」とすることもできなくはないが、一定程度以上はいくら鍛えても掌が強くなることはないので「耐性」と捉える方が妥当であろう。

第四十四章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

  第四十四章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】 この章では道を学ぶと、欲望を満たすのではなく反対にそれを抑制することで充分な満足が得られると述べられている。それは外に求めることではない。名誉(名)や財産(貨)を過度に求めれば、それは自分自身を傷つけることになる。また人は名誉を求めるものであること、財産を大切と考えるものであることは知っているであろうが、そうしたものを過度に求めると、かえって得たものをも失ってしまうことになるし、それを失えば心身を病んでしまうことにもなろう。そうであるから「余りに愛着を持てば必ず大変な損失となるであろう(甚だ愛せば必ず大いに費やさん)」「多く持てば必ず多くを失う(多く蔵すれば、必ず厚く亡くす)」とされているのである。また、足るを知っていれば、更に求めることは無い。求めることが無ければ、つまりは失敗をして辱めを受けることも無い。止まるを知っていれば、進むことが無い。進むことが無ければ、危ういことも無い。そうであるから自身を守ることができるのである。「長久」の道とはこういったものである。 〔自分にとって本当に必要なものは何かを知ることが大切であるというのが「足るを知る」ということで、単に現状で満足しようとするものではない。「止まるを知る」とは余計なことをしないということで、例え「権力」に強制されても必要のないことは行わない(できれば徴兵などは逃げる)のが結局は「長久」を得られるのである〕

第四十四章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第四十四章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 名と身はいずれか親しからん。身と貨はいずれか多からん。 〔名誉と体とはどちらが重要なのであろうか。それは体である。体と財産とはどちらが価値があるのであろうか。それは体である〕 「多」とは重いということである。 得と亡とはいずれか病せん。これ故に甚だ愛せば必ず大いに費やさん。 〔得ることと失うことはどちらが苦しいであろうか。それは得ることである。得ることが無ければ失うという苦しみも生まれることがない。そうであるから過度に愛着を持つと少しでも失われると多いに気に病まねばならなくなる。〕 存在しているもの(有)に愛着を持てば(愛)、それを求めようとすることになるが、そうなればあらゆる手段を尽くしても欲しくなる。こうした時の労力の費えは大きなものとなる。 多く蔵すれば、必ず厚く亡くす。 〔過度に多く持てば、少しでも失うことが気になって仕方がなくなる〕 持つもの(蔵)が多ければ、それをもらおうとする者も多いことであろう。そうなればそれを失わないでいられることは難しい。 足るを知らば辱められす。 〔どのくらいが必要不可欠であるから知っていれば間違いを起こすこともない〕 現状で充分であると思えば、それを楽しむことができる。 止まるを知らば殆(あや)うからず。 〔適度なところで欲望を制御することができでは身を誤ることはない〕 「止まるを知る」とは、危険のあることを恐れて止まるわけである。 もって長久たるべし。 〔このように適度な欲望を持っていれば長く安泰でいることができる〕

道徳武芸研究 御信用の手は合気上げである〜矛盾概念としての「合気」から〜(9)

道徳武芸研究 御信用の手は合気上げである〜矛盾概念としての「合気」から〜(9) 植芝盛平は晩年、大東流から受け継ぐ「制圧」法としての形を「気形」であるとしてなるべき流れに乗せる柔らかな動きに変えて行った。それはある意味では「御信用の手への回帰」であったとすることもできるのかもしれない。とにかく相手を「制圧」しないという理念を言うために盛平は宗教的な「我即宇宙」であるとか「万有愛護」であるとかいった言葉を使わざるを得なかったのであろう。「我即宇宙」は攻防の場においても相手が居なく成るということである。相手が居ないのであれば「制圧」法としての動きはそもそも生じなくなる。また「万有愛護」も同様で、あらゆるものを愛し護るのであれば、これも「制圧」法は使うことができない。このように盛平は優れた感性によって「矛盾」の回避に努めていたのであるが、その歩みは必ずしも後代に受け継がれたとは言い難いようである。

道徳武芸研究 御信用の手は合気上げである〜矛盾概念としての「合気」から〜(8)

  道徳武芸研究 御信用の手は合気上げである〜矛盾概念としての「合気」から〜(8) 日本の古武道と称されるものには剣術を初めとして柔術、槍術、杖術、棒術などいろいろな種類があるが、何故か柔術だけがこれを「やわら」と読むことが慣習としてある。他の剣術などにはこのような仮名での特別な読み方は無くあくまで音読みの「けんじゅつ」としか読まないのである。これは柔術の根底には「やわら」という概念のあることを暗示しているのではなかろうか。つまり柔術は「やわら」から派生して来た徒手技法であるということが分かるのである。「やわら」は聖徳太子の十七条憲法の第一にも「和(やわらかき)」をして争いを止めるように教えており、ここに「やわら」の淵源を見ることができるわけなのである。つまり「やわら」とは相手を制圧するのではなく、相手との諍いを回避する方法として示されているのであり、御信用の手もこうした「離脱」法であることが明確に意識されなければならないわけである。

第四十三章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

  第四十三章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】 道を学ぶ者は、「強梁」(第四十二章)の戒めを充分に知らなければならない。天下の道は「柔」を用いるよりも妙なるものはないのである。つまり堅いものは折れやすく、柔かなものは折れることないので常に存している。また至柔は至堅を含んでもいる。それは水が石を穿つことでも知ることができるであろう。つまり柔は毀たれることがないわけである。有と有であれば、互いに干渉しあうであろう。しかし至無をして至有に入るのであれば、それは無の中に有を認めるもので、気という「無」の中に「有」としての体が存しているようなもので、ここに気は全身を巡ることになる。つまり「無」は「有」の中を自在に動けることを知ることになるのである。そうであるから無為であっても、為すことのないものは無いのであり、これが「至理」なのである。同様に不言(無)にして自ずから教(有)えるということもあり得るのであり、無為(無)にして功(有)が自ずから成ることになるのである。そうであるから天下において「有」はどうしてこのような「無」の働きに及ぶことができるであろうか。 〔柔の中には剛を含めることができる。無の中には有を含めることができる。こうした柔構造の優位さを老子は教えている。〕

第四十一三章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第四十一三章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 天下の至柔は、天下の至剛を馳騁(チテイ)する。 〔どのような場合であっても「柔」に考えが固定されることがなければ、それはつまりは「剛」として自在に使うことができるのである。柔の中には剛へと転換する要素が含まれている〕 「馳騁」とは、(走らせるの意味があるがここでは)使うということである。 無有は無間に入る。 〔無と有とはかけ離れているようであるが、実は密接な関係にある。無も有も容易に転換させることが可能なのである〕 「無有」「無形」「無間」とは縫い目が無いということである。 吾はこれ無為の有益なるを知る。不言の教、無為の益は、天下これに及ぶもの希れなり。 〔私はこうした転換が無為によって生じることを知っている。それは無の中に剛を見い出せば良いだけなのであり、何ら無に手を加える必要はない。教えにおいても語られないところを考えることでその教えは無限な展開が可能となる。このように無為であることで、それ自体が潜在的に持っているものを見出して、使うことが可能となるのであり、これこそが最も重要なのである〕

道徳武芸研究 御信用の手は合気上げである〜矛盾概念としての「合気」から〜(7)

  道徳武芸研究 御信用の手は合気上げである〜矛盾概念としての「合気」から〜(7) 大東流は「御信用の手=合気上げ=呼吸(力養成)法」により相手の感覚を深く知ることから始まった。これはおおきく言えば「離脱法」とすることができよう。一方で柔術技法は「制圧法」とすることができるであろうか。近現代になって大東流が柔術として発展して行く過程で剣術に付属する「離脱法」の時期から柔術として発展して行く「制圧法」への転換の時期があったものと思われる。武田惣角は相手を下に制することが多かったとされるが、後の師範達は植芝盛平を初めとして派手に投げることが多い。つまり本来「離脱法」であった「御信用の手」をベースとするシステムが、「制圧法」へと変貌して行く過程で「合気」が剛的なものをも含まなければならないという矛盾が生まれたと言えよう。もし合気道や大東流がシステムとしての崩壊を回避しようとするのであれば「離脱法」として技法を編成し直す必要があるであろう。もしそれがかなわなければ「合気」はシステムのとしての崩壊を迎えることになるのではなかろうか。

第四十二章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

  第四十二章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】 この章では道は「虚の用」であることについて述べている。そして深く「満」「盈」を戒めている。道は物の生まれていない始めに存している。そして世俗にあっては一から三へと展開して行き、三は万物へと至るが、これら全ては道から生まれたものであり、それが万物の多きに至るのである。そこでは陰を負って、陽を抱いているのを観ることができるであろう。そしてそこには必ず冲虚の気が存していて、陰陽を和しているであろう。見るべきは虚でなければならない。虚こそが物の生ずる根源なのである。古において「道」に名を付ける者はそれを卑下して、王公の称をもってした。これには虚を貴ぶの意が含まれている。そうであるから物はこれを損することでかえって益を受けるのである。益を受けることでかえって損をするのである。こうした意があるので、これによって更によく虚を知らなければならない。よく虚は無(無為自然)であるということの妙がある。つまり古人はこうしたことを教えていたのである。そうであるから「吾(老子)」もまたそれを教えている。(蔭で屋根を支える)「強梁」においては「その死を得ることはない」のであり、「吾」はこうしたこと(陰、虚、無の重要性の教)をして「教父」としているのである。 〔「強梁はその死するを得ず」という古く方のことわざは「強いものは生き残る」という教えであるが、これを老子は「強いものは不自然に生き残ってしまう」という意味として解する。こうした不自然な行為は良い結果を招くことはないとする教えをここから汲み取るわけである。春が来れば生まれ、冬になれば死ぬるのが自然の流れなのである〕

第四十二章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第四十二章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 道は一を生み、一は二を生み、二は三を生み、三は万物を生む。 〔道という「道理」「法則」は運動をベース(一)としている。運動は二つの物の間に反発を生む。また融合をも生む。こうした相対立するものの反発と融合とであらゆるものが存在している〕 まさにこれが道である。一のいまだ生まれていないところに道は既に存している。そして一が生まれると、二が生まれる。これは物に陽があれば陰があるのと同じである。そして陰陽がそろえば、そこには陰陽の交わりも存することとなる。これは三ということにならないであろうか。この三があればあらゆるものが生まれて来るのである。 万物は陰を負いて陽を抱える。 〔あらゆるものは融合(陰)を基本として、そこに反発(陽)が生じている〕 およそ物は進行(陽)方向と反対の勢い(陰)が生じることで動きが止まることとなる。これが陰・静である。耳、目、口、鼻、はすべて体の前に付いているので陽・動となる。 冲気もって和を為す。 〔反発と融合は同時に働いている。そしてこれらはともに関係をしている〕 冲虚の気が赴くのは陰陽の間である。 人の悪むところは、ただ「孤寡」「不穀」にして、王公もって称するを為す。 〔人は「孤独」や「質素」であることを好みはしないが、王公はこうした状態にあることを自分で言い広めるものである〕 これは道を体得している人の例えであり、自分を卑しい「賊」としているということである。 補注 この世祖の解釈では王公が自分を卑下しているようになるが、「称するを為す」で言い立てるというニュアンスを取るなら、そのように自分を偽って見せているということになる。 故に物、あるいはこれを損して益し、あるいはこれを益して損す。 〔つまり「物事は損をしても得をする。得をしても損をする」と言われているのと同じなのである。つまり王公は自分を不幸な状態であるとして人々から同情を得ようとしているのである。王公が多くの人を使い、贅沢な暮らしをしている「真実」を知ったなら、それは人々の反発を招くことになるであろう〕 これは「奢れる者は損を招き、謙虚な者は益を受ける」(『書経』)ということである。 人の教えるところ、我またこれを教う。強梁はその死するを得ず。吾まさにもって教父と為す。 〔自分は世間に言われている教えを、改めて言っているのに過ぎない。そ

道徳武芸研究 御信用の手は合気上げである〜矛盾概念としての「合気」から〜(6)

  道徳武芸研究 御信用の手は合気上げである〜矛盾概念としての「合気」から〜(6) 大東流のすべての技法は「合気上げ」から派生しているのであるから、これが「御信用の手」であり、大東流で「合気を掛ける」と言われるのは、「御信用の手」の一部をいうものと解釈するのが妥当なのではないかと思われるのである。また「御信用の手=合気上げ」が柔術ではあり得ない両手持ちであることからすれば、これが抜刀を制せられた状態を第一に想定していることが分かる。日本の刀は片手で抜くことはできないので、相手は当然のことに両手を抑えに来る。それを如何に外すか、というところから「御信用の手」は生まれたものと思われるのである。それが何時の日にか柔術技法へと展開をして行ったのであろう。大東流の柔術技法の実戦性におおいに疑問のあることは植芝盛平も「合気は当身が七分」としていたことでも明白であろう。大東流の柔術は基本的には刀を持っている我が方の手を、相手は離すことができない状態にあることを前提としている。このため相手が自由に手を離すことのできる試合には極めてなじまないわけなのである。

道徳武芸研究 御信用の手は合気上げである〜矛盾概念としての「合気」から〜(5)

  道徳武芸研究 御信用の手は合気上げである〜矛盾概念としての「合気」から〜(5) ところで合気道の「矛盾」がどこから来ているか、というとこれは既に触れたように「やわら」の歴史そのものに淵源していることがひとつにはある。私見によればこうした矛盾は本来、大東流には存していなかったのではないかとも考えている。それは柔術の歴史からして大東流合気柔術という名称が不自然であることがある。一般的に流派名であれば大東流柔術とするべきであるが、大東絵流では柔術の上に合気柔術があるとする。これは先に述べたように「合気」の技法(取り口)が加えられるだけであるので、柔術の中の特殊な工夫という範囲に留まっていて、あえて合気柔術というカテゴリーを設けるまでもない。大東流では柔術を「剛法」、合気柔術を「柔法」としてイメージされることもあるようであるが、合気柔術となるとこれも述べて来た如くに「柔法」としての合気と、「剛法」としての合気が共に存することになり、ここに矛盾が生じてしまう。ところで大東流の伝書を見ると最後には一様に、あらゆる大東流の技法が「御信用の手」であると記されている。御信用の手がどのようなものであるのかについては既に述べたような説があるが、私はこれは「合気上げ」のことではないかと思っている。