道徳武芸研究 武術と武道(2)

 道徳武芸研究 武術と武道(2)

日本では「道」は「心の修養の方法」というように捉えられている。単に「術」を学ぶだけではなく、その奥にある「心」の涵養が大切でありそれを「道」とするわけである。つまり武道であれば「武」が術で、「道」が心ということになる。なぜ中国では「武道」や「茶道」というような言い方がないのか。それは既に述べたように「道」が武術や茶芸の枠を超えたところにあるものであるからに他ならない。そうであるから「道」に「武」や「茶」といった限定を付することはできないのである。このため「武道」や「茶道」という言い方そのものが存しえないことになる。「道」とは武術や茶芸を通じて涵養される「何ものか」なのであり、それはいうならば「X」ということと同じなのである。そうであるから「道」がどのようなものであるかの定義付けが行われることはなかった。つまり中国の修行においては「結果」を限定しようとはしないのである。これに対してインドでは「結果」を限定してそれに至ろうとする。このため仏教では悟りという「結果」の定義が「論」として緻密になされることになったのである。中国武術で一人の形が中心であるのも、動きの意味を限定しない、つまり「結果」を限定しないシステムであるためである。これに対して日本のように常に相手を付けた形であればその動きの「結果」は一定したものとなってしまう。また日本では免許皆伝などのこれも「結果」に至ることが重視されるが、中国では「入室弟子(拝師)」のような「入門」が重んじられる。「入室弟子」とはその門派を学ぶ準備が出来ているという意味であり、それ以降、どのような修行をして、どのような境地に至ったか(結果を得たか)は個々人それぞれということになる。


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