第四十七章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

 第四十七章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

この章では、「性体を用いれば充分である」ということについて述べている。天下は大きいといっても、人が居て物があるのに過ぎない。家から出ないでも、天下の状況を知ることはできる。天の道は隠れているが、それは陰陽の変化であるに過ぎない。そうであるから窓を開くことがなくても、世の中の様子を知ることはできるのである。もし、外に出て天下の道を知ろうとしても、行くことのできた範囲で知ることができるだけである。そうであるから「その出ることいよいよ遠ければ、その知ることいよいよ少し」としている。聖人は外出などすることなく、(論理的思考である)道を本として天下の様子を知ることができるのである。見ることはなくても、心(つまり思考)によって知ることができるのである。そうであるから天下の事は、(論理的思考によって類推することで)すべて知ることができるのである。(論理的思考を敷衍する)天の道の妙は、どのような物であってもそれに名を付すことができる(つまり類推することで「事実」を知ることができるのである)。何でもよく知っていて、よく名付けること(つまり類推すること)ができる。そうであるから「為さずして成る」としている。それは自然から教えを受けているということである。


〔論理的思考の重要さをここでは教えている。論理的思考とは普遍化できる理論によることである。そうであるから「そういうことになっている」「それは当然のこと」などということは受け入れられない〕


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