第四十五章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

 第四十五章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

この章では「虚静」の妙について述べられている。成るものがあれば、欠けるものもある。大いに成ると、常に欠けているように見えるものである。盈(みつ)ることがなれば、そこには虚なる部分が存していることになる。大いに盈れば常に虚があるように見える。そうであるから、大いなるものにおいてその用は窮まることがないのである。大いなる直ぐさは常に屈しているように見える。曲がっているものこそが完全なのである。大いに巧みであれば常に拙っているように見えるものであるが、それは自らを誇ることがないためである。大いに弁ずるものは常にうまく喋れていないように見えるものである。しかし、そこには理が通っているので、多くの情報を伝えることができている。現に寒暑は存しているが、これは天地の気によるものである。これに対して人にあっては躁(あわただ)しく動くことで寒さに勝つことができる。静を得ることができれば、熱に勝つことができるであろう。ある時は躁しく、ある時は静かにするというのは、人の身において正しい行為とは言えない。より適切な状態があるのであり、それは「清静」であって、天下においてあるべき正しい状態に自ずからなることができるのである。ここにおいて「成、欠」「盈、虚」といった状況にとらわれる必要があろうか。


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