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宋常星『太上道徳経講義』(20ー1)

  宋常星『太上道徳経講義』(20ー1) あらゆる物は「本」が無ければ生じることが無い。水でも源が無ければ流れ出ることは無い。つまり万物が無限に生まれ出るのは「本」があるからである。古(いにしえ)より今に至るまで季節の変化は絶えること無く、それは不可思議なことに天地と同じく永遠である。またあらゆる水には源があることによって、古から今に至るまで、高いところから低いところに流れていて、それは天地と同じく動きを止めることがない。こうしたことは全て天地、万物が、よく「大道の母の気」を食べているからに他ならない。「大道の母の気」ということを詳しく言うならば、それは音が無く、匂いが無く、物質でも無く、非物質でも無い、これといえるものでは無く、その始まりも終わりも分からない。しかし造化の中核であり、物質の根源でもある。そうであるから「大道の母の気」からは余すところなく万物が生まれているのであり、万物を養って尽きることがない。空間、時間を超越して働き、造化の妙を尽くしている。それは「大道の母の気」なのである。こうして見ると天地、万物でこの「大道の母の気」によることなく存しているものは無い。ここに述べられているは、こうした「母の気」についてである。修行者ははたしてよく天地と一体となって「母の気」を食することができているであろうか。見ること無く、聞くことも無ければ、自然に性命はひとつとなる。他人にとらわれること無く、我にもとらわれ無ければ、自然に心と徳はひと連なりとなる。上にあっては天の時を知り、下にあっては地の理に達す。そして中にあっては人や物の存在意義を極めている。ここにおいて道は完全に会得される。それは不完全であるようであるかもしれない。永遠で無く終わりがあるようであるかもしれない。自由でないようであるかもしれない。品性を欠くようであるかもしれない。それは特に優れた人でなければ、理解できない境地なのである。ここで知るべきは「母を食べる」ということの真意であり、それは修行をする上での急務でもある。この章で「母を食べる」ということが如何に重んじられているかは以下に明らかである。 〈奥義伝開〉この章の最後に出て来る「食母」についてはいろいろな解釈がある。宋常星は「母を食べる」と読んでいる。これは漢文としては普通の読み方である。ほかに「食母」で「乳母」という意味もあるのでそれで解釈しよう

宋常星『太上道徳経講義』(19ー7)

  宋常星『太上道徳経講義』(19ー7) 「素」を見て「樸」を抱き、自分へのこだわりを少なくし多くの欲を持つことがない。 「素」「樸」の二字は、この章を総括するものである。「素」を見るのには目で見るのではない。心の目で自分の内面を見つめるのである。自分の内面を観察すると不思議にも自分の内面が無窮であり、虚静の光に包まれていることが分かる。また、そこによく天地の始まりを見ることができたならば、そこに本来の自分の根源を知ることができるであろう。「樸」を抱いているのは、太古の実質を重んじて装飾を良しとしないことであり、過多な装飾を排して「淳」「樸」なる世界へ還ろうとしている。もし自分の内と外との関係を見たならば、人の本来の心である「性」には真誠の理が働いているのが分かるであろう。「少私寡欲(自分へのこだわりを少なくし多くの欲を持つことがない)」は、内にあっては心身に、外にあっては事物に、その時々によって行われる。それはまた本来の自分の心と身(性命)に帰することでもある。自分というものへのこだわりを無くして、自分よがりでは無くなるということである。周囲の環境に影響されることもなく恋慕の情におぼれることも無い。虚飾を排して堅実であること、すべてはそこにある。これをして身を修すれば、修行の成らないことはないし、斉(ととの)わない家も無い。治まらない国も無い。国が治まれば、天下は平かにならないことなど全くない。修行者にあっては、よくこれを理解して、「少私」であってその「巧」みさを絶ち、「寡欲」であってその「利」を棄てるべきである。そうなると「盗賊」なるものは棄てられ、「孝」や「慈」が実践されて、そこに「仁」や「義」も同時に行われることになる。「聖」や「智」を改めて考えることもなく、「清」や「静」は全く融合して「一」となり、無欲、無為となる。性命は完全無欠で、全てにわたって道の徳が実践されるようになるのである。 〈奥義伝開〉本文の「『素』を見て『樸』を抱き」は原文では「素見抱樸」とある。これは「もとより樸を抱くを見る」と読む方が良いと考える。つまり「人は本来的に樸をその性質として有していると見るべきで」という意味の方が妥当であるように思うのである。そうであるから自分への過度の執着をすることも無く、欲望も深くはなら無い、となる。「樸」とは生まれたまま、あるがまま、自然のままということ

道徳武芸研究 大東流の「伝承」について(8)

  道徳武芸研究 大東流の「伝承」について(8) 日本における合気道の霊的な取り組みは植芝吉祥丸がそうしたものと合気道とを関連付けることを嫌ったこともあって一般的には広がることがなかった。盛平の霊的な感覚世界を述べた『武産合気』も盛平と親交のあった白光真宏会からの出版である。こうした中で一部にはオカルト的な妄想による「技」を使うと称する人も出たが、「御信用之手」から発する霊的な力の開発という流れを最もあるべき姿で受け継いだのは実は塩田剛三であった。塩田は盛平の内弟子となった時も、神祀りに熱心な盛平には「ついていけない」という思いを持っていたようである。しかし、後に足の親指で相手の足を抑えると激痛を与えることができる「力」を得た。こうしたことができるのは足の感覚が開いているからに他ならない。つまり西郷四郎と同じことが塩田にも起こっていたわけなのである。これは時を超えた「御信用之手」の復活ではないかと思われる。

道徳武芸研究 大東流の「伝承」について(7)

  道徳武芸研究 大東流の「伝承」について(7) 武田惣角や植芝盛平以後、大東流、合気道における「神」の力への希求は何処に行ったのであろうか。海外ではかなり前から「気」の感覚をして合気道を説明する人が多く居た。特に80年代の「精神革命」と称される東洋を中心とする神秘主義の流行の中で合気道も禅などと共に見直されて、「気」の感覚を開く方法として教えられることもあったようである。そうした経験を持つ人が「本場」日本の合気道の道場に入門してみると、「気」などは一切語られることはなく受け身や投げをひたすら稽古するだけであったので、すぐに失望して止めたという話は何度か聞いたことがある。その頃の日本の合気道の本は技が解説してあるだけであったが、アメリカなどでは「気」の流れや「気」の感覚を得ることで新たな知覚が開かれると説明しているものが多かった。ジョージ・レオナードの『魂のスポーツマン』からはそういった取り組みを知ることができる(レオナードには「合気道への道(The Way of Aikido)」2000年という本もある)。こうした方向性はある意味で合気道の本義ともいうべきものであるが、日本では既に「組織」が出来てしまっているので、相手が必要な合気道ではなかなか実践することが難しく、実質的にはこうした神秘的なことは新興の中国武術が担うようにもなる。

道徳武芸研究 大東流の「伝承」について(6)

  道徳武芸研究 大東流の「伝承」について(6) 興味深いことに植芝盛平はひじょうに霊的な力を得ることに執心しており、息子の吉祥丸によれば霊能者とされる人が居れば大金を与えて教えを乞うていたらしい。ために家計はしばしば火の車であったという。そして時には半紙を加えてローソクの火を凝視したり、太陽を見つめたりするようなこともしていたという。大本教を信奉したのも出口王仁三郎に師事することで霊能力が得られた、と思ったからである。武田惣角も西郷頼母に関しては霊的な知覚を持っていたとする話を語っている(何時もとは違うところで水を汲んで茶を出したら「違う」と叱られた等)。一方で頼母が武術を使ったとするエピソードは無い。前回も触れたが、こうした霊的な力を求めることの「背景」にはかつての「遍歴」して「神」を授けて周った人たちの「記憶」が残っていたのかもしれない。つまり技の伝授は、芸能を見せるのと同じく、あくまで霊的な力を付けるための方途であるという視点である。

道徳武芸研究 大東流の「伝承」について(5)

  道徳武芸研究 大東流の「伝承」について(5) 不思議なことに合気道は技の未完成度とは逆に人々の心を捉えて離さないところがある。実際に試合形式で技を掛けて見れば分かるが、使える合気道の技はほとんど無いと言っても良いくらいである。それは柔道の技の使いやすさとは比べものにならない。しかし、もし柔道から競技というゲーム性を完全に失くしたとしたら、その人口は激減するのではなかろうか。では試合もない合気道の魅力とは何処にあるのか。それは折口信夫が定住している人の暮らしの外にあって「文化」を伝えた「まれびと」が「神」をも持ち歩く存在であったことを指摘していることによって理解されよう。つまり合気道の魅力とは日本人の持つ「神」的なものにあったと考えられるのである。「神」的なものというのは「何神」というのではなく、「霊的な力」のことである。かつて漫才は「万才」で「遍歴」をする芸人が、永遠の命である「万才」を聞く人に付与する行為であった。「万才」をする旅芸人には、一万年の才(とし)を付与するだけの霊力を操ることができると信じられていたわけである。柔道や剣道とは違い、大東流や合気道に何らかのオカルト的な「影」がつきまとうのは、そもそもそうしたものを取扱う人たちが伝えたものであったからに他ならない。

宋常星『太上道徳経講義』(19ー6)

  宋常星『太上道徳経講義』(19ー6) つまりこれらの教えが依って立つところがあるのである。 「教え」とは戒めのことである。「依って立つ」とはその本質であり、根本でもある。この教えは、ここに述べられている三つのことであるが、それは治世の要であり、民への教えの基準でもある。その依って立つところ、それを民は信じて実行しようとすることは疑いもないことであろう。そうであるので「つまりこれらの教えが依って立つところがあるのである」としているのである。 〈奥義伝開〉次に述べることであるが、老子はシンプルであること、本当に必要なものは何か、をよく考えることが収奪者にだまされないために必要なことと教えている。「易経」では「易」「簡」は正しいか、そうでないかの判断基準たり得るとする。あえて「聖」なるものが必要なのか。あえてこの情報(智)は必要なのか。例えば危機情報などは、各省庁が予算を獲得するために、かなり意図的に流されることも多い。こうしたものに惑わされないように「本当に必要なもの」をよく見極める必要がある。

宋常星『太上道徳経講義』(19ー5)

  宋常星『太上道徳経講義』(19ー5) この三つは、単なる譬えではない。 ここで「三つ」とあるのは、先にあった「聖を絶って智を棄てる」「仁を絶って義を棄てる」「巧を絶って利を棄てる」である。これらを詳しく見てみると、まったく単なる譬えで言っているのではないことが分かる。とても譬えで済ませてしまえるようなことではなく、真実として余りあることである。太古の日々がよみがえったとしたら必ずそこには「樸」であり「素」である風俗が見られることであろう。これをして家をととのえ、国を治め、天下を平らかにする。そうなれば人々は今より万倍もの利益を得て、父は子に「慈」を、子は父に「孝」をなすようになり、盗賊も居なくなってしまうことであろう。ただここにある短い言葉だけでは十分に意が尽くされているとは言えないので、「この三つは、単なる譬えではない」としているのである。 〈奥義伝開〉老子は、ここに挙げたのはひとつの譬えではあるがその奥にあるものをよく知って欲しいとする。重要なことは「聖」や「智」などの個々のものを絶ち棄てることではく、その判断基準となるものをよく知ることにある。そのことが以下に説かれる。収奪者が民の目をくらませて最終的には自らの収奪を円滑に行おうとするのはここにあげた事柄に留まるものではないのである。

宋常星『太上道徳経講義』(19ー4)

  宋常星『太上道徳経講義』(19ー4) 「巧」を絶ち「利」を棄てる。そうなれば盗賊は居なく成る。 リーダーシップにより統治の方法を変えていくのは「巧」である。民の財産を増やすのは「利」を与えることである。しかし統治の方法を適切に変える「巧」は大巧とすることはできない。大巧は誰もそれを視ることのできないものであり、誰もその存在を知ることがない。財産による「利」は大利ではない。大利とは天下に「利」をもたらすことであり、永遠に天下を「利」することなのである。ここに「巧」を絶ち「利」を棄てる、とあるのは、まさに統治の方法を変えることによる「巧」を絶って、財産による「利」を棄てることをいっている。つまり統治の方法を変えることは、政治のスキを生みやすいので、そこにつけ込もうすとする賊を生むことになる。財産により「利」を与えようとすると、それを掠め盗ろうとする者を生むことになる。そうであるから「巧」や「利」はそれを絶ち棄てた方が良いのである。こうしたことを修行において考えるなら、まったく「巧」は否定されることになる。「巧」や「利」は、人々の好むところではあるが、実のところ災いのもとになるものでもある。人の本来持っている根源的な性質である「性」を害してしまう原因ともなる。盗賊は盗みを働き、不義であるばかりではなく、更にこの「盗」においては、道理を害している。つまり道理に外れることを行うと「賊」となるのである。もし、意識において「巧」や「利」を排除することができたならば、心の中の「盗賊」は自ずから除かれることとなろう。そうであるから「『巧』を絶ち『利』を棄てる。そうなれば盗賊は居なく成る」と言えるのである。 〈奥義伝開〉最後は利便性である「巧」や利益をいう「利」による誘導の危険性が述べられる。ただ「巧」や「利」は「聖」「智」「仁」「義」といった倫理的な観点からすれば反対されることも少なくない。利便性や利益性を得るには何かをしなければならない。この何かと利便性、利益性を比べた時に後者が勝ると思わせるわけである。意味のない国家的なイベントなどはそうした典型で、それに少なからざる人々は狂喜する。こうした人達は収奪者と一緒になって民の富を奪って浪費をさせるので「盗賊」とされている。このような「盗賊」はいろいろなとこであり、保身のためであったり、目先の利益のためであったりするのでよく注意して

道徳武芸研究 大東流の「伝承」について(4)

  道徳武芸研究 大東流の「伝承」について(4) また大東流の源流が「遍歴」によって「文化」をもたらす人によって伝えられたこと、またそうした人は通常の定住生活をしている人の外に暮らす人たちであった。時にこうした人たちが「ごろつき」などと言われることがあるのは定住する人たちとは別の価値観を持っていたためである。いうなら反体制的な生き方をしていたからであるということもできるかもしれない。こうした人たちと西郷頼母が接した得たのは会津が明治政府によって負けたことによるのであろう。そうしたことからすれば頼母が西南戦争の西郷隆盛を支援したことや養子の四郎が大陸での「政変」に強い関心を持っていたいこと、さらには植芝盛平も政府から大弾圧を受ける大本教の信者であったことなど、見えない糸ともいうべきある種の「影」のようなものが大東流に関係する人たちの間に見て取れるのである。

道徳武芸研究 大東流の「伝承」について(3)

  道徳武芸研究 大東流の「伝承」について(3) 武田惣角は「英名録」を持って各地を周っていた。そこには警察署長や裁判官など地方の「名士」とされる人物の名が「弟子」として記されていた。これは見知らぬ土地で自分の実力・権威を「証明」するためのものであった。つまり惣角の伝授の形は「遍歴」をして「文化」を伝えた人たちの影を色濃く残していたのである。これに対して植芝盛平は既に近代の「道場」の人であった。大体において「遍歴」をして教える武術では多くの技は必要ない。大東流において一部の技が伝書に記されているものと似ているのは、「遍歴」武術としての大東流の原形を伺わせるものと考えられる。現在ではこうした「遍歴」によって「文化」を伝達する人はごく少なくなったが、芸能ではいまだにそうした人が居る。テレビでは何度かやった芸は飽きられるが、各地の市民会館などを巡っていれば、同じ芸の「たね」を長く使うことができる。大東流の技はおそらく惣角が定着して教えるようになってから増えて行ったのであろう。堀川幸道も惣角が「思い出した」と言って新しい技を教えていたと述懐している。

道徳武芸研究 大東流の「伝承」について(2)

  道徳武芸研究 大東流の「伝承」について(2) これは武術に限らないが、近世以前の「文化」の伝達と、近代以降の「文化」の伝達には大きな違いがある。それは近世以前においては「遍歴」をして「文化」を伝達する人が数多く居たことである。もちろん江戸や京都には儒教や武術の「塾」があり、地方にもそうした「塾」を設けたり、藩校で教えたりもされていた。しかし、特に民間にあっては多くの「文化」を持ち歩く人たちが居たことを忘れてはなるまい。これは松尾芭蕉の『奥の細道』を見れば明らかであるが、各地方には「文化」を欲する人たちが居て、そうした人たちの間を巡って教えを授けて生活をしている人が居たのである。これはもちろん俳句だけではなく、和算や武術、国学や儒学、そして芸能などあらゆる「文化」が「遍歴」をする人たちによって各地にもたらされたのである。こうした人たちを折口信夫は「まれびと(客人)」と称し、また時には「ごろつき」と見なされることもあったとする。つまり、こうした人たちは日常世界の外に居る人たちだったのである。頼母、惣角以前の大東流の「伝承」が分からないのは、そうした「まれびと」によって伝えられていたからではなかろうか。そして大東流や合気道には、その「痕跡」を見ることが可能なのである。

道徳武芸研究 大東流の「伝承」について(1)

  道徳武芸研究 大東流の「伝承」について(1) 現在、大東流の伝承について明らかであるのは、武田惣角が教えていたこと、その当初に西郷頼母が関係していたことなどがあげられる。かつては会津藩で教えられていたのではないか等といわれていたが現在ではそうした事実のなかったことは明らかとなっている。一方、頼母の養子で講道館でも活躍した西郷四郎もどうやら「御信用之手=合気」を会得していたらしく、その得意技・山嵐は「御信用之手」で心身の感覚が開かれていなかればとても使えるものではなかったようで、納治五郎も「その得意の技においては幾万(いくまん)の門下いまだ右に出(い)でたるものなし」と述べている。つまり山嵐は柔道技の延長線上にある「技」ではないということであり、結果として頼母からの「御信用之手」の教授を推測させることになる。しかし頼母は大東流の柔術は知らなかったようで、四郎にもそうした「痕跡」を見ることができない。

宋常星『太上道徳経講義』(19ー3)

  宋常星『太上道徳経講義』(19ー3) 「仁」を絶って「義」を棄てる。そうなれば民は「孝」や「慈」を再び行うようになる。 愛し養うのは「仁」である。あるべきを厳しく行うのが「義」である。父母に尽くすのは「孝」である。人に対して、あるいは物をも含めて相手に好ましいことをするのが「慈」である。しかし本質的には「仁」と「義」では全く異なるところがないのである。行うことにおいても全く違いはない。ここに「仁」を絶ち「義」を棄てるとあるのはどういうことなのであろうか。つまり絶つのは自分勝手な思い込みによる「仁」であり、棄てるのは正当な評価によらない「義」なのである。こうした思い込みによる「仁」を家庭で用いると、ただ自分の家の妻や子を愛するだけになってしまう。そうなると両親のことを思うこともなく、ましてや他人に「仁」を行うことなどまったく思いも及ばないことであろう。また妻子を顧みることなく、親族の関係をよく考えてみることもなく接したならば、一族は必ず不和になることであろう。善行といえないようなことを良しとするのは、「仁」ではない。悪い行いではないのにそれを批判するのは、それは「義」とすることはできない。もしそうしたことを国のレベルで行ったならば、それはそれを行った人の好みで行っただけで、正しい批判や評価ができていない状態となる。こうなればそれぞれが互いにいがみ合って、国は治まることがないであろう。そうであるから聖なる君主が「上」にあって、「仁」ということは言わないで「仁」を実行する。「義」ということは言わないで「義」を行う。そうなると天下の人々は完全なる「孝」や「慈」を行うようになる。けっして「孝」や「慈」ということを考えることもなく、自分では「孝」を行っているとは意識しないで行われている。「慈」もそれを行っている意識は無い。「孝」も「慈」も共に忘れられているような人にあってこそ「孝」や「慈」の実践は生涯なされるのである。そうであるから「『仁』を絶って『義』を棄てる。そうなれば民は『孝』や『慈』を再び行うようになる」と言えるのである。 〈奥義伝開〉「仁」や「義」も打ち捨てられる。「仁」や「義」が「孝」や「慈」と対して置かれているのは、「仁」「義」が他人との関係、社会的な関係において行われるのに対して、「孝」や「慈」が子から親、親から子に向けた血縁関係において為される「自然」な感

宋常星『太上道徳経講義』(19ー2)

  宋常星『太上道徳経講義』(19ー2) 「聖」を絶って「智」を棄てる。そうなれば民は百倍の利益を得ることができる。 微細なことにまで通じているのが「聖」である。あらゆることを広く知っているのは「智」である。「聖」や「智」を有している人は天下に少なくはないであろう。そうであるから「聖」や「智」を有する人を居ないとか、少ないとかすることはできない。「聖」や「智」を絶つべきものとするならば、そうした人を排することになり、実質的には道を天下に行うことも不可能ということになる。そうなると徳もまた永遠に出現することがないであろう。ここでは「聖」を絶って「智」を抑えることが述べられているが、これは後世へ向けて、「聖」や「智」は自分で得るものであって、それらは民に与えられるものではないことを述べている。こうしたものが国のレベルで用いられれば、「上」にある為政者は無為となり、「下」にある人民も特別なことをする必要が無くなる。また「上」である為政者が無為であれば、民は自ずから富んで、特別なことが為されなくても国は自ずから安らかとなる。聖人が「上」に居れば、広く天下に道が行われることになる。「聖」や「智」ということを疎かにするのではない。そうであるから孔子は「聖」なる存在とされ尊ばれている。古代の聖なる王である堯は人々のために己を捨てて統治をしていたし、舜は人々のために善を行った。禹はそれを聞いて善を尊ぶようになった。これらはすべて「聖」を絶って「智」を棄てたところに達せられたことである。つまり聖人の心は、常に寂然不動にあるのであり、そうであるから「聖」や「智」を絶って、しかもそれを行うことができるのである。「聖」や「智」ということを殊更に言わず、「聖」という音場を知らないからこそ、「聖」なる行為が純粋に行われる。「智」ということが言われなくても、「智」が用いられるからこそ偉大なのである。そうであるから聖人が適切な政治の地位にあれば、「上」である為政者も「下」である人民も共に無為となり、「上」も「下」も特別なことをすることは無くても、人々は何らの不足を覚えることもないし、国は富むようになる。そうであるから「『聖』を絶って『智』を棄てる。そうなれば民は百倍の利益を得ることができる」と言えるのである。 〈奥義伝開〉老子はここで「聖」「智」と民、「仁」「義」と民、「巧」「利」と盗賊を並べてい

宋常星『太上道徳経講義』(19ー1)

  宋常星『太上道徳経講義』(19ー1) 美しく飾り立てることを虚飾という。見かけを排して実質を重んじるのは堅実である。虚飾と堅実とは本来的には相容れない。「上」が虚飾を良しとすれば、「下」は必ず虚飾は堅実より重要なものと考えるようになる。「上」が堅実を良しとすれば、「下」は必ず堅実は虚飾より重要なものと見るようになる。堅実は虚飾に勝っている。虚飾を排して堅実を取るのであれば、その害は少ないことであろう。虚飾が堅実に勝るようになると、無意味な飾りばかりが行われるようになり、天下の無知なる人が、これによって害されること甚だしい。この章で述べられているのはまさにそうしたことである。 この章では「樸」や「素」が重要であると教えられているが、これは天下の永遠なる戒めでもある。虚飾を排して実質を取る。虚飾を軽んじて堅実が重んじられなければならない。 〈奥義伝開〉ここでは為政者が、聖、智、仁、義、巧、利などを提示して来た時にどのように対すれば良いのかを述べている。大体において為政者が「道徳」をして民からの収奪をしようとする時には、初めには大きな「徳」を提示する。「聖」であるとか「智」といったものはある意味で普遍的であり、誰も反対するものではない。また「仁」や「義」はそれを用いる場合によっては反対を言う人もあるかもしれないが、これも大体は賛成するであろう。そして最後には「巧」や「利」で民を誘おうとするわけである。ただ「巧」や「利」になると反対を表明する人も出てくるが、こうしたものは民の中から自発的に賛成をする者が出て来ることを老子は「盗賊」として表現している。それは民の本当の「利」を奪い収奪する者に加担する行為であるからである。

道徳武芸研究 「合気」を定義してみる(4)

  道徳武芸研究 「合気」を定義してみる(4) 手首を制する「合気」は「気を合わせる」というイメージがあることで、そちらの方向(呼吸力)に無限に拡大して行く傾向、危険を含んでいた。呼吸力はまさにこの「気を合わせる」というタイミングを用いるものであり、厳密にいうと大東流の「合気=御信用之手」と同じではない。「呼吸力」を使う場合、形はたんなる「象徴」となり、技術としての「合気」を使う場合とは全く意味合いの異なるものとなってしまう。しかし往々にして合気道の形は「技術」として捉えられることが多く、そうなるとより激しく技をかけようとして、ますます「気を合わせる」という方向から外れてしまう。要するに大東流は「御信用之手」、合気道は「呼吸力」となっていればよかったのであるが、そこに「合気」の語が入ってきたために後に大きな混乱を招くようになった。基本的には「御信用之手」と「呼吸力」は手首を制するということで分けることが可能で、「合気」もこの範囲に限定する本来の「自己の心身の働きを知る」いうことが明確となり、オカルト化や格闘技化との区別が可能となるのではなかろうか。

道徳武芸研究 「合気」を定義してみる(3)

  道徳武芸研究 「合気」を定義してみる(3) 「合気」の説明演武でよく聞かれるのは「しっかり持ってください」という言葉であろう。手を掴ませた相手に更に力を込めて掴むように促すわけであるが、普通はこれにより掴まれた方は不利になると思われる。そして、そうした状態で相手を制することで技の優越性が示されるのであるが、実際はそうではなく、そうした方がむしろ有利な状態となるのが「合気」を理解する鍵でもある。ただ手を掴ませた場合は、大体において親指と人差し指に力を入れて掴んでいる。しかし、これでは相手の手首の固定化は充分ではない。そこで更に力を入れるように促して小指も使わせる。そうなるとより手首は固定されてしまう。また小指に力を入れることで肘も固定される。この肘の固定は実は重要で、肘を固定させることで相手の体の中心軸に力を送ることが可能となるのである。また親指と人差し指に力が入っていると相手は自分の体勢を変化させることができない。加えて先にも触れたように小指に力を入れているので肘も固定されていて、こちらの力を相手の肩を通して体の中心に伝えることができる。こうした技術が合気上げの構造としてある。これ以外の手首を制することのない「合気」は「呼吸力」として区別した方が良いであろう。

道徳武芸研究 「合気」を定義してみる(2)

  道徳武芸研究 「合気」を定義してみる(2) 手首を制する技術が相手の体勢を崩す「合気」にまで発展したのは、それが当初は抜刀を制せられるというシチュエーションにおいて考案されたものであったためであろう。少林寺拳法の「釣手守法」に見られるように、第一義的には相手の掴んでくる動きを封じるだえで良いのであるが、それがそのまま相手の体勢を崩すところまでの技術に成熟して行ったのは、抜刀をするという主目的があったためである。そのため握っている刀から手を離して他の動きに移ることができなかったわけである。こうした動き及びそれから派生した手首を制する技術を「合気」とすると、合気道の多くの技はそれに当てはまらなくなる。つまり合気道で使っているのは「呼吸力」なのである。合気道とは言いながら、実は技において使われているのは「呼吸力」である。こうしたところに合気道のシステムとしの矛盾と混乱がある。またいうならば「合気」という語が、そもそも大東流に入って来たことが後の「合気」を巡る混乱を来たしたと言っても良いくらいなのである。本来、大東流には「合気」の語はなく大東流柔術と御信用之手があったのみであり、この御信用之手が手首を制する技術であったと思われる。これが大東流では「合気」上げとされ、合気道では「呼吸」(力養成)法とされたところにまた大きな混乱が生まれることになった。本来、大東流とあわせて伝えられていた手首を制する技術は、技術であるのであるから技術としてのイメージのある「手」という語を用いた「御信用之手」であった方が良かったのであるが、大東流において何らかの伝承の混乱があったのであろう「御信用之手」の鍛錬法が「合気」上げと称されるようになる(大東流で最初に渡されるのが「初伝」ではなく「秘伝奥義」の巻物であることも大東流の混乱をうかがわせるし、他にも教授される技と伝書が関係していない等のことがある)。そうした過程において「御信用之手」の意味も見失われてしまったものと思われる。大東流には伝書を作った「人」が別に居たようで、大東流の伝書の形式は他に類を見ない。この「人」についての考察はまた改めて行いたい。

道徳武芸研究 「合気」を定義してみる(1)

  道徳武芸研究 「合気」を定義してみる(1) 「あいき」という語は近世の武術伝書に「相気」として見ることができる(合気とある場合もある)。この場合は「リズム」をいうもので、相手の「リズム」に乗せられてはならない、という意味で「相気」にならないように教える文脈でのみ見ることができる。一方で現在使われている「合気」は肯定的な意味合いで用いられており、近世の「あいき」とは全く異なっている。そこで現在の「合気」を一応、定義付けるとすると「合気」とは「手首を制する技術である」といえるのではなかろうか。そして、その具体的な方法は合気上げ(呼吸法・呼吸力養成法)において鍛錬される。相手の手首を制することで、相手の攻撃力を無力化し、こちらからの力は相手の肩を通して中心軸に及ぼすことができるようにする。そうすることで相手の体勢を崩すのである。相手から手を掴まれた場合には、それを一旦、外して攻撃に転ずるのが一般的であり、擒拿や柔術では腕の外し方が、いくつか伝えられている。少林寺拳法の「鉤手守法」もそうしたもののひとつであり、ベースは相手の攻撃の動きを止めて反撃に出るための手法なのであるが、人によってはこれを「合気」と同じように使う。相手に掴まれたまま、その体勢を崩して投げるのである。この場合にももちろん相手の「手首」を制して相手の体の中心軸に作用を及ぼしている。

宋常星『太上道徳経講義』(18ー5)

宋常星『太上道徳経講義』(18ー5) この章では太古にあっては無為の治世が行われていたことを明らかにしている。自然の治である。この世には盛衰があり、それによって人の心にも「大偽」が生まれた。それは時代を追うごとに進んでいる。修行をする人も、もしよく仁義ということを考えてみることがなかったならば、そうした知恵に触れることもないであろう。当然、行うべきことを行う。あたりまで居る。そうなれば「孝」を行っても、それが特別視されることはなく、「忠」を為しても「忠」をして名が立つこともない。つまり道ということがあえて言われることがなければ、道によって生(命)が営まれていない、ということにはならないのである。 〈奥義伝開〉静坐で最も排されるのは「偽(つくりごと)」であり、それは「偽(いつわり)」でもある。ただ坐って居れば良いだけであって、余計なことをしてはならない。人はこうした「簡易」なことを続けることが、かえって難しいようではある。しかし「簡易」を知ることこそが静坐の眼目なのである。「簡易」とは最小限必要なものを選ぶということで、全てをあえて捨てることではない。静坐に必要な最小限のものが何かをよく考えるべきである。そしてそれは生活に最小限必要なものを考えることにもなる。

宋常星『太上道徳経講義』(18ー4)

   宋常星『太上道徳経講義』(18ー4) 国家が混乱すれば忠臣が出て来る。 心の底から、そして心を尽くして行われるのが「忠」である。上の者と下の者との区別が明らかでなければ、そこには混乱が生まれる。国家にあって失政があれば、これを「混乱」ということができる。聖なる君主が在位していた頃を詳しく考えて見るに、君主と民は共に楽しみ、等しく平安であった。国は治めやすく、民は安らかに暮らすことが容易であった。人々は「忠」を思い実践していたが、そこで殊更「忠」が意識されることもなかった。そうした時にどうして「忠」があえて求められるであろうか。一方で国家が混乱したならば、忠節を立てることは難しく、忠義を尽くしたとしても、それを通すことは困難である。この身を捨てて国に尽くし、あくまで大義を行い、国祖建国の精神を失わないようにしたならば、ただそれを当然のこととして行ったとしても、国が乱れている時には「忠臣」としてその名が知られるようになるであろう。たとえば殷の紂王は無道の政治を行っていたが時、箕子のために比干は殺されてしまった。そして比干は長く歴史に「忠臣」の名を留めた。もし紂王が道にそった政治を行っていれば、聖なる君子と賢い臣下が居ただけで、箕子は囚われることもなく、比干は殺されることもなかったであろう。もちろん忠臣・比干の名が今日に伝わることもなかったであろう。そうであるから「国家が混乱すれば忠臣が出て来る」とあるのである。 〈奥義伝開〉「国」は人為的なシステムである。これは先に「知恵」とあったのと同じで、機能しなくなれば作り直さなければならない。しかし「国」というシステムによって収奪の利益を得ている人たちはそれをなんとか維持しようとする。こうした人たちが「国」の中枢に居る人たちからは「忠臣」と褒めそやされる。また不思議なことに現実には収奪される側に居る「庶民」の中にも「国」の収奪システムを維持しようとする人が出て、これも「忠臣」とされる。「庶民」の「忠臣」で最も悲惨なのは戦争英雄であろう。最後は命まで奪われて「国」の中枢にある収奪者は温々と生き残り、収奪は続いて行くのであるから。

宋常星『太上道徳経講義』(18ー3)

  宋常星『太上道徳経講義』(18ー3) 六親が仲良くすることがなければ、孝や慈が生まれる。 「六親」とは「父、母、伯、叔、兄、弟」のことで、六親が仲良くするところには「孝」が立ち「慈」が生まれている。しかし「孝」や「慈」を実践している人が、必ずしもそれを行っていると称されるとは限らない。一方で六親が仲良くできていない状態では「孝」や「慈」を行うことはきわめて困難となる。こうした状態が広がれば「孝」や「慈」を実践する人は、天下に居なくなってしまう。そうなれば「孝」や「慈」といったことが、天下に言われることもなくなるわけである。父の瞽叟が頑固者であったので、息子の舜のおおいなる孝行も知られることになった。もし、そうでなければ、舜の家族はただ仲良くしており「孝」も普通に行われていたに過ぎなかったわけである。そうなれば舜がおおいなる「孝」をしたといわれることもなかった。そうであるから「六親が仲良くすることがなければ、孝慈が生まれる」とあるのである。別の本では「慈」とあるのを「子」としているが、そうであると「孝行な子が生まれることになる」ということになるが、それでも良かろう。 〈奥義伝開〉親が子をかわいいと思うのが「慈」で、子が親を敬って大切にするのが「孝」である。儒教では人間道徳の基本がここにあるとする。人は本来「慈」と「孝」をもって生まれたとして、それを親子から親族、そして社会の人々に対しても実践することであるべき社会が作られると教えていた。老子も等しく親族の間では例え「慈」や「孝」が失われた状態になったとしても、それを再び実践しようとする思いが出て来るとする。それは「慈」や「孝」が生まれながらのものであるからに他ならない。この章では、よく老子が「仁」や「義」「慈」「孝」を唱えることを否定した、との理解も見られるが、もしそうした教えを否定しているのであれば、老子が「道」や「徳」を教えようとすることもなかったであろう。老子は道理である「道」を見出し、それを実践することは人としてのあるべき行い「徳」の実践であると考えていた。こうしたことにおいて具体的に何をしたら良いのかを明らかにしようとしたのが孔子であった。

道徳武芸研究 合気と柔術〜なぜ大東流は「複雑」化したのか〜(4)

  道徳武芸研究 合気と柔術〜なぜ大東流は「複雑」化したのか〜(4) 結論をいうなら合気道は大東流合気柔術の「合気」をベースに展開されたのであり、大東流は「柔術」を深く研究して一大技法群を構築したのであった。「合気」の稽古が「御信用之手」とされるものであることは以前に考察したが、盛平は晩年にあっても、門弟たちが立業の稽古をしていると不機嫌になり、座技を充分に稽古するように指導していたとされる。それは座技で行う合気上げ(呼吸力養成法)を重視せよ、ということであった。盛平は直感的に座技の呼吸力養成法に合気道の原点(御信用之手)があることを分かっていたのであろう。また合気で相手を制してしまえば固め技はごく簡単なもので構わない。実戦では相手の攻撃を制したならばそのまま逃げるのが妥当であろう。盛平の考えでは「合気・呼吸力」によって相手の攻撃を避ければそれで良いし、もし相手を倒してしまうならば当身を使うべきと考えていたのであり、あえて実戦で失敗する危険の大きい「複雑」な固め技など必要ない、と思っていたのではなかろうか。

道徳武芸研究 合気と柔術〜なぜ大東流は「複雑」化したのか〜(3)

  道徳武芸研究 合気と柔術〜なぜ大東流は「複雑」化したのか〜(3) 結果として大東流が広く知られるようになると大東流は「複雑」な技で評価され、合気道は流れに乗せて相手を投げる技という印象が強くなった。こうした方向性の違いは惣角と盛平にも見られる。より「複雑」な技を教えようとする惣角(大東流では一般的により複雑な技法を上位の技としている)と、それに距離を置こうとする盛平という構図が生まれることになる。こうしたことが生じる原因は実は大東流のシステムそのものに内包されていた。つまり「合気」と「柔術」の分離である。現在、大東流においては「合気」の技法である「御信用之手」と「柔術」の技法である「大東流柔術」がひとつになっているが、これらは完全にはシステムとして統合されてはいない。そのために「大東流合気柔術」という他には類例を見ないような流派名となったのである。歴史的な柔術の流派名としては「大東流柔術」でよいのであり、日本には最古とされる竹内流柔術から柔道の源流である起倒流柔術にいたるまで「○○柔術」とするのが流派名としては普通なのである。しかし、そこにわざわざ「合気」を入れたのは本来の大東流とは違ったシステムが混入していたために他ならない。

道徳武芸研究 合気と柔術〜なぜ大東流は「複雑」化したのか〜(2)

  道徳武芸研究 合気と柔術〜なぜ大東流は「複雑」化したのか〜(2) 植芝盛平は大東流の「複雑」な固め技にはあまり興味がなかったようで、合気道に採られているのは5本ほどの簡単な抑え技であり、投げ技にしてもいくつもの手順を要するものは採られていない。つまり盛平が関心を持ったのは後に合気道を開くことでも分かるように「合気」にあったのであり、「複雑」な固め技ではなかったということである。これをいうなら盛平が重視したのは大東流の「合気」であって「柔術」ではなかったということも可能であろう。盛平が武田惣角に入門した時には固め技で相当に痛めつけられたと伝えられていて、その威力についてはよく認識していたことと思われるが、そうした部分よりも「合気」の方に盛平の関心はあったのであろう。実際に「複雑」な技を自由に抵抗する相手に掛けることはできない。「王者の座」という映像でも後に十段を許される藤平光一は関節を用いた投げをしようとしても掛からず柔道のような投げでなんとか巨漢のアメリカ人(?)を制している。また試合を行う富木流でもこうした事情は変わらない。実戦で使えない「柔術」技法を練習しても仕方がないという思いが盛平にはあったのであろう。

道徳武芸研究 合気と柔術〜なぜ大東流は「複雑」化したのか〜(1)

  道徳武芸研究 合気と柔術〜なぜ大東流は「複雑」化したのか〜(1) 1981年日本武道館の日本古武道演武大会で大東流が演武を行ったが、その時に披露された複雑な固め技には多くの人が驚くと同時に、合気道との違いをも実感したのであった。これより前、中国武術の研究家であった松田隆智は78年に『秘伝日本柔術』を出版して大東流の「神秘」的ともいうべき「合気」の技法の一部を紹介していた(松田は往々にして神秘的であったり、珍しかったりするものを好んで紹介したが、それはまたマニア心をくすぐるものでもあった)。松田が佐川幸義の技を本に載せた時には「合気」を使うことで相手を動けなくさせることができる、という文脈の中で相手の手足を絡め取るような「複雑」な技法が提示されていた。しかし、武道館での演武以降は次第に「合気道との違い」ということで一見して分かりにくい「合気」云々よりは「複雑」な技法の方に人々の関心が集まるようになって行った。大東流では「合気道で行われているのは初心の簡単な技ばかり」という批判も見られた。

宋常星『太上道徳経講義』(18ー2)

  宋常星『太上道徳経講義』(18ー2) 大道が廃れてしまうと、仁義が現れる。知恵が出てくると、大いなる偽(つくりごと)が生まれる。 太古の頃は世の中がうまく治まっていた。それは三皇(伏羲、神農、黄帝)が在位していた時代であり、上下皆ひとつであった。仁義や知恵、忠孝といったことを教えられることが無くても、そうした徳は行われていた。人々は自ずからそうした徳を行っていたのである。つまり、そうした教えはなかったが実質的には仁義や知恵、忠孝といったことが行われていたのである。こうした教えがなくても、人々はそのままで仁義を実践しており、知恵も持っていて、忠孝も行っていた。それは、ただ人々がそれぞれが行うべきことを行っていたに過ぎないのである。こうした状況では上も下も互いに道を実践しているなどと考えることもない。日々の暮らしの中では仁義も知恵も忠孝も忘れられてしまっている。しかし、そうしたことが行われなくなると、君主は「道」を示して統治をせざるを得なくなった。無為の徳化が行われることがなくなったのであり、ここに大道は既に隠れてしまった。大道が失われてしまったのである。それは自然に失われたのではなく人が自分で手放したのであった。もし仁義ということをいわないで仁義を実践したとしても、その行為は仁義と称されることであろう。そうであるから「大道が廃れてしまうと、仁義が現れる」とされているのである。仁義が殊更に言われるようになるとは、そうした「知恵」が見出されたということである。仁義といった「知恵」が見出されなければ「仁」を実践しょうとしてもできないし、「義」も広く為されることはない。つまり三皇の世は仁義をして天下を治めていたのであるから、それが失われた時代にあって仁義を実践しようとするなら「仁義」という知恵が出ないでは不可能なのである。そうした知恵が出れば、天下の民は、知恵に従うことになる。ここにすでに純朴なる世の中は失われており、本来のもの(大道)は損なわれてしまっており、ここに滅びの時を迎えることになり、国家は乱れてしまう。こうしたことは以上のようなことによって生まれるのである。春秋の戦乱の時代になると五覇が生まれた。聡明なる人物が輩出し、思いもよらないような才能を持っている人が多く出た。彼らは偽(つくりごと・いつわい)の仁、偽りの義を行い、人を騙すことを多く行った。利を求め名を得