宋常星『太上道徳経講義』(18ー5)

宋常星『太上道徳経講義』(18ー5)

この章では太古にあっては無為の治世が行われていたことを明らかにしている。自然の治である。この世には盛衰があり、それによって人の心にも「大偽」が生まれた。それは時代を追うごとに進んでいる。修行をする人も、もしよく仁義ということを考えてみることがなかったならば、そうした知恵に触れることもないであろう。当然、行うべきことを行う。あたりまで居る。そうなれば「孝」を行っても、それが特別視されることはなく、「忠」を為しても「忠」をして名が立つこともない。つまり道ということがあえて言われることがなければ、道によって生(命)が営まれていない、ということにはならないのである。


〈奥義伝開〉静坐で最も排されるのは「偽(つくりごと)」であり、それは「偽(いつわり)」でもある。ただ坐って居れば良いだけであって、余計なことをしてはならない。人はこうした「簡易」なことを続けることが、かえって難しいようではある。しかし「簡易」を知ることこそが静坐の眼目なのである。「簡易」とは最小限必要なものを選ぶということで、全てをあえて捨てることではない。静坐に必要な最小限のものが何かをよく考えるべきである。そしてそれは生活に最小限必要なものを考えることにもなる。


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