道徳武芸研究 大東流の「伝承」について(5)

 道徳武芸研究 大東流の「伝承」について(5)

不思議なことに合気道は技の未完成度とは逆に人々の心を捉えて離さないところがある。実際に試合形式で技を掛けて見れば分かるが、使える合気道の技はほとんど無いと言っても良いくらいである。それは柔道の技の使いやすさとは比べものにならない。しかし、もし柔道から競技というゲーム性を完全に失くしたとしたら、その人口は激減するのではなかろうか。では試合もない合気道の魅力とは何処にあるのか。それは折口信夫が定住している人の暮らしの外にあって「文化」を伝えた「まれびと」が「神」をも持ち歩く存在であったことを指摘していることによって理解されよう。つまり合気道の魅力とは日本人の持つ「神」的なものにあったと考えられるのである。「神」的なものというのは「何神」というのではなく、「霊的な力」のことである。かつて漫才は「万才」で「遍歴」をする芸人が、永遠の命である「万才」を聞く人に付与する行為であった。「万才」をする旅芸人には、一万年の才(とし)を付与するだけの霊力を操ることができると信じられていたわけである。柔道や剣道とは違い、大東流や合気道に何らかのオカルト的な「影」がつきまとうのは、そもそもそうしたものを取扱う人たちが伝えたものであったからに他ならない。


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