宋常星『太上道徳経講義』(20ー1)

 宋常星『太上道徳経講義』(20ー1)

あらゆる物は「本」が無ければ生じることが無い。水でも源が無ければ流れ出ることは無い。つまり万物が無限に生まれ出るのは「本」があるからである。古(いにしえ)より今に至るまで季節の変化は絶えること無く、それは不可思議なことに天地と同じく永遠である。またあらゆる水には源があることによって、古から今に至るまで、高いところから低いところに流れていて、それは天地と同じく動きを止めることがない。こうしたことは全て天地、万物が、よく「大道の母の気」を食べているからに他ならない。「大道の母の気」ということを詳しく言うならば、それは音が無く、匂いが無く、物質でも無く、非物質でも無い、これといえるものでは無く、その始まりも終わりも分からない。しかし造化の中核であり、物質の根源でもある。そうであるから「大道の母の気」からは余すところなく万物が生まれているのであり、万物を養って尽きることがない。空間、時間を超越して働き、造化の妙を尽くしている。それは「大道の母の気」なのである。こうして見ると天地、万物でこの「大道の母の気」によることなく存しているものは無い。ここに述べられているは、こうした「母の気」についてである。修行者ははたしてよく天地と一体となって「母の気」を食することができているであろうか。見ること無く、聞くことも無ければ、自然に性命はひとつとなる。他人にとらわれること無く、我にもとらわれ無ければ、自然に心と徳はひと連なりとなる。上にあっては天の時を知り、下にあっては地の理に達す。そして中にあっては人や物の存在意義を極めている。ここにおいて道は完全に会得される。それは不完全であるようであるかもしれない。永遠で無く終わりがあるようであるかもしれない。自由でないようであるかもしれない。品性を欠くようであるかもしれない。それは特に優れた人でなければ、理解できない境地なのである。ここで知るべきは「母を食べる」ということの真意であり、それは修行をする上での急務でもある。この章で「母を食べる」ということが如何に重んじられているかは以下に明らかである。


〈奥義伝開〉この章の最後に出て来る「食母」についてはいろいろな解釈がある。宋常星は「母を食べる」と読んでいる。これは漢文としては普通の読み方である。ほかに「食母」で「乳母」という意味もあるのでそれで解釈しようとしている場合もある。おそらく「食母」は「玄牝の門」と同様なことを示す語で、一般には「大地母神」のようなものであると考えられる。大地母神は大地の生命力の神格化であるが、こうした信仰は世界に普遍的に見ることができる。「食母」がやや抽象化されて「玄牝の門」となり、後にはさらに抽象化が進んで先天真陽の一気などと称されるようになる。この章では老子の行っていた静坐の実際を知ることができる。


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