宋常星『太上道徳経講義』(19ー3)

 宋常星『太上道徳経講義』(19ー3)

「仁」を絶って「義」を棄てる。そうなれば民は「孝」や「慈」を再び行うようになる。

愛し養うのは「仁」である。あるべきを厳しく行うのが「義」である。父母に尽くすのは「孝」である。人に対して、あるいは物をも含めて相手に好ましいことをするのが「慈」である。しかし本質的には「仁」と「義」では全く異なるところがないのである。行うことにおいても全く違いはない。ここに「仁」を絶ち「義」を棄てるとあるのはどういうことなのであろうか。つまり絶つのは自分勝手な思い込みによる「仁」であり、棄てるのは正当な評価によらない「義」なのである。こうした思い込みによる「仁」を家庭で用いると、ただ自分の家の妻や子を愛するだけになってしまう。そうなると両親のことを思うこともなく、ましてや他人に「仁」を行うことなどまったく思いも及ばないことであろう。また妻子を顧みることなく、親族の関係をよく考えてみることもなく接したならば、一族は必ず不和になることであろう。善行といえないようなことを良しとするのは、「仁」ではない。悪い行いではないのにそれを批判するのは、それは「義」とすることはできない。もしそうしたことを国のレベルで行ったならば、それはそれを行った人の好みで行っただけで、正しい批判や評価ができていない状態となる。こうなればそれぞれが互いにいがみ合って、国は治まることがないであろう。そうであるから聖なる君主が「上」にあって、「仁」ということは言わないで「仁」を実行する。「義」ということは言わないで「義」を行う。そうなると天下の人々は完全なる「孝」や「慈」を行うようになる。けっして「孝」や「慈」ということを考えることもなく、自分では「孝」を行っているとは意識しないで行われている。「慈」もそれを行っている意識は無い。「孝」も「慈」も共に忘れられているような人にあってこそ「孝」や「慈」の実践は生涯なされるのである。そうであるから「『仁』を絶って『義』を棄てる。そうなれば民は『孝』や『慈』を再び行うようになる」と言えるのである。


〈奥義伝開〉「仁」や「義」も打ち捨てられる。「仁」や「義」が「孝」や「慈」と対して置かれているのは、「仁」「義」が他人との関係、社会的な関係において行われるのに対して、「孝」や「慈」が子から親、親から子に向けた血縁関係において為される「自然」な感情であると老子は考えていたからであると思われる。儒教では本来「仁」や「義」も「孝」や「慈」のような人の本来持っている感情から派生したものとする。それが切り離されて君主から臣下への「仁」、臣下から君主への「義」が説かれるようになるとこれは「道」から外れたものとなると老子は警告しているわけである。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(8)

道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(6)

道徳武芸研究 八卦拳から合気道を考える〜単双換掌と表裏〜(4)