宋常星『太上道徳経講義』(18ー3)

 宋常星『太上道徳経講義』(18ー3)

六親が仲良くすることがなければ、孝や慈が生まれる。

「六親」とは「父、母、伯、叔、兄、弟」のことで、六親が仲良くするところには「孝」が立ち「慈」が生まれている。しかし「孝」や「慈」を実践している人が、必ずしもそれを行っていると称されるとは限らない。一方で六親が仲良くできていない状態では「孝」や「慈」を行うことはきわめて困難となる。こうした状態が広がれば「孝」や「慈」を実践する人は、天下に居なくなってしまう。そうなれば「孝」や「慈」といったことが、天下に言われることもなくなるわけである。父の瞽叟が頑固者であったので、息子の舜のおおいなる孝行も知られることになった。もし、そうでなければ、舜の家族はただ仲良くしており「孝」も普通に行われていたに過ぎなかったわけである。そうなれば舜がおおいなる「孝」をしたといわれることもなかった。そうであるから「六親が仲良くすることがなければ、孝慈が生まれる」とあるのである。別の本では「慈」とあるのを「子」としているが、そうであると「孝行な子が生まれることになる」ということになるが、それでも良かろう。


〈奥義伝開〉親が子をかわいいと思うのが「慈」で、子が親を敬って大切にするのが「孝」である。儒教では人間道徳の基本がここにあるとする。人は本来「慈」と「孝」をもって生まれたとして、それを親子から親族、そして社会の人々に対しても実践することであるべき社会が作られると教えていた。老子も等しく親族の間では例え「慈」や「孝」が失われた状態になったとしても、それを再び実践しようとする思いが出て来るとする。それは「慈」や「孝」が生まれながらのものであるからに他ならない。この章では、よく老子が「仁」や「義」「慈」「孝」を唱えることを否定した、との理解も見られるが、もしそうした教えを否定しているのであれば、老子が「道」や「徳」を教えようとすることもなかったであろう。老子は道理である「道」を見出し、それを実践することは人としてのあるべき行い「徳」の実践であると考えていた。こうしたことにおいて具体的に何をしたら良いのかを明らかにしようとしたのが孔子であった。


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