宋常星『太上道徳経講義』(19ー7)

 宋常星『太上道徳経講義』(19ー7)

「素」を見て「樸」を抱き、自分へのこだわりを少なくし多くの欲を持つことがない。

「素」「樸」の二字は、この章を総括するものである。「素」を見るのには目で見るのではない。心の目で自分の内面を見つめるのである。自分の内面を観察すると不思議にも自分の内面が無窮であり、虚静の光に包まれていることが分かる。また、そこによく天地の始まりを見ることができたならば、そこに本来の自分の根源を知ることができるであろう。「樸」を抱いているのは、太古の実質を重んじて装飾を良しとしないことであり、過多な装飾を排して「淳」「樸」なる世界へ還ろうとしている。もし自分の内と外との関係を見たならば、人の本来の心である「性」には真誠の理が働いているのが分かるであろう。「少私寡欲(自分へのこだわりを少なくし多くの欲を持つことがない)」は、内にあっては心身に、外にあっては事物に、その時々によって行われる。それはまた本来の自分の心と身(性命)に帰することでもある。自分というものへのこだわりを無くして、自分よがりでは無くなるということである。周囲の環境に影響されることもなく恋慕の情におぼれることも無い。虚飾を排して堅実であること、すべてはそこにある。これをして身を修すれば、修行の成らないことはないし、斉(ととの)わない家も無い。治まらない国も無い。国が治まれば、天下は平かにならないことなど全くない。修行者にあっては、よくこれを理解して、「少私」であってその「巧」みさを絶ち、「寡欲」であってその「利」を棄てるべきである。そうなると「盗賊」なるものは棄てられ、「孝」や「慈」が実践されて、そこに「仁」や「義」も同時に行われることになる。「聖」や「智」を改めて考えることもなく、「清」や「静」は全く融合して「一」となり、無欲、無為となる。性命は完全無欠で、全てにわたって道の徳が実践されるようになるのである。


〈奥義伝開〉本文の「『素』を見て『樸』を抱き」は原文では「素見抱樸」とある。これは「もとより樸を抱くを見る」と読む方が良いと考える。つまり「人は本来的に樸をその性質として有していると見るべきで」という意味の方が妥当であるように思うのである。そうであるから自分への過度の執着をすることも無く、欲望も深くはなら無い、となる。「樸」とは生まれたまま、あるがまま、自然のままということで無為自然と同じである。要するに老子は無為自然であればあらゆる事が適切に動いて行くと考えていたわけである。


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