宋常星『太上道徳経講義』(19ー2)

 宋常星『太上道徳経講義』(19ー2)

「聖」を絶って「智」を棄てる。そうなれば民は百倍の利益を得ることができる。

微細なことにまで通じているのが「聖」である。あらゆることを広く知っているのは「智」である。「聖」や「智」を有している人は天下に少なくはないであろう。そうであるから「聖」や「智」を有する人を居ないとか、少ないとかすることはできない。「聖」や「智」を絶つべきものとするならば、そうした人を排することになり、実質的には道を天下に行うことも不可能ということになる。そうなると徳もまた永遠に出現することがないであろう。ここでは「聖」を絶って「智」を抑えることが述べられているが、これは後世へ向けて、「聖」や「智」は自分で得るものであって、それらは民に与えられるものではないことを述べている。こうしたものが国のレベルで用いられれば、「上」にある為政者は無為となり、「下」にある人民も特別なことをする必要が無くなる。また「上」である為政者が無為であれば、民は自ずから富んで、特別なことが為されなくても国は自ずから安らかとなる。聖人が「上」に居れば、広く天下に道が行われることになる。「聖」や「智」ということを疎かにするのではない。そうであるから孔子は「聖」なる存在とされ尊ばれている。古代の聖なる王である堯は人々のために己を捨てて統治をしていたし、舜は人々のために善を行った。禹はそれを聞いて善を尊ぶようになった。これらはすべて「聖」を絶って「智」を棄てたところに達せられたことである。つまり聖人の心は、常に寂然不動にあるのであり、そうであるから「聖」や「智」を絶って、しかもそれを行うことができるのである。「聖」や「智」ということを殊更に言わず、「聖」という音場を知らないからこそ、「聖」なる行為が純粋に行われる。「智」ということが言われなくても、「智」が用いられるからこそ偉大なのである。そうであるから聖人が適切な政治の地位にあれば、「上」である為政者も「下」である人民も共に無為となり、「上」も「下」も特別なことをすることは無くても、人々は何らの不足を覚えることもないし、国は富むようになる。そうであるから「『聖』を絶って『智』を棄てる。そうなれば民は百倍の利益を得ることができる」と言えるのである。


〈奥義伝開〉老子はここで「聖」「智」と民、「仁」「義」と民、「巧」「利」と盗賊を並べている。こうした構成からすれば「聖」「智」「仁」「義」「巧」「利」にあるのは民ではない統治者ということになる。また盗賊は民のことであることが分かる。収奪者のいう「聖」や「智」などは絶ち切ったり、破棄してしまう程の価値しかない。収奪者達が仕立て上げた「聖」なる者や「智」つまり情報が、危急の時にどれほど立たなかったか、あるいは害悪となったかを考えれば、そうしたものの無意味さも明らかであろう。「聖」なるものは盛大な虚飾に満ちた儀式によって捏造され、「智」は危機を煽ることでその情報が捏造される。そして民はいずれの場合でもただ収奪されるのである。そうであるからそうしたものを棄ててしまえば、今より百倍の利益が失われないで確保されることになる。


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