宋常星『太上道徳経講義』(19ー4)

 宋常星『太上道徳経講義』(19ー4)

「巧」を絶ち「利」を棄てる。そうなれば盗賊は居なく成る。

リーダーシップにより統治の方法を変えていくのは「巧」である。民の財産を増やすのは「利」を与えることである。しかし統治の方法を適切に変える「巧」は大巧とすることはできない。大巧は誰もそれを視ることのできないものであり、誰もその存在を知ることがない。財産による「利」は大利ではない。大利とは天下に「利」をもたらすことであり、永遠に天下を「利」することなのである。ここに「巧」を絶ち「利」を棄てる、とあるのは、まさに統治の方法を変えることによる「巧」を絶って、財産による「利」を棄てることをいっている。つまり統治の方法を変えることは、政治のスキを生みやすいので、そこにつけ込もうすとする賊を生むことになる。財産により「利」を与えようとすると、それを掠め盗ろうとする者を生むことになる。そうであるから「巧」や「利」はそれを絶ち棄てた方が良いのである。こうしたことを修行において考えるなら、まったく「巧」は否定されることになる。「巧」や「利」は、人々の好むところではあるが、実のところ災いのもとになるものでもある。人の本来持っている根源的な性質である「性」を害してしまう原因ともなる。盗賊は盗みを働き、不義であるばかりではなく、更にこの「盗」においては、道理を害している。つまり道理に外れることを行うと「賊」となるのである。もし、意識において「巧」や「利」を排除することができたならば、心の中の「盗賊」は自ずから除かれることとなろう。そうであるから「『巧』を絶ち『利』を棄てる。そうなれば盗賊は居なく成る」と言えるのである。


〈奥義伝開〉最後は利便性である「巧」や利益をいう「利」による誘導の危険性が述べられる。ただ「巧」や「利」は「聖」「智」「仁」「義」といった倫理的な観点からすれば反対されることも少なくない。利便性や利益性を得るには何かをしなければならない。この何かと利便性、利益性を比べた時に後者が勝ると思わせるわけである。意味のない国家的なイベントなどはそうした典型で、それに少なからざる人々は狂喜する。こうした人達は収奪者と一緒になって民の富を奪って浪費をさせるので「盗賊」とされている。このような「盗賊」はいろいろなとこであり、保身のためであったり、目先の利益のためであったりするのでよく注意しておかなければならない。


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