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第三十三章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

  第三十三章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】 この章では聖人の道について述べている。返照内観(自分の内側を見つめて)して、どのような状態であっても、不足を思うことがない。もし、そこに分別の心が除かれていなかったならば、いろいろな価値判断をしてしまうので、どのような状態であっても充分と思うことはできなくなるであろう。もし「道」による「常の明」を知ることができたならば、全ては自得されることであろう。力を使って闘って勝ったとしても、相手には勝つことができるが、自分に勝つことはできない。つまり克己の強さは、競争に勝つような力ではどうにもならないのである。貪る者は日々に不足を思うであろう。自分は足りないと思ったことはない。それは富んでいるからである。物を求めれば得られる。私は努力を怠らないが、たとえ物が得られなくてもくじけることはない。物を求めても、それだけで終わりにはしない。そうであるから物を失ったとしても、失ったと思ったことはない。失うことがなければ、どのような状態であっても、永遠に得ている状態で居ることができる。死生はおおいなる根源であり、(人の本質である)性は亡びることはない。亡びることがないので寿(ひささし)くあることが可能である。よく永遠であり得るのである。どうして生まれない者や死なない者が居ようか(そうした限り有る人生であるが、「道」を知ることで永遠なるものへの悟りを得ることができるのである)。このように至人の行うところのものは(「道」と一体となっているので)全てに欠けているところがないのである。 〔心の平安や満足は外にそれを求めるのではなく、自分の中に求めることで真に得られるのである〕

第三十三章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第三十三章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 人を知れるは智(さと)く、 〔他人のことがよく分かっている人は賢いが、それはあくまで限定した相手のことを知っているのに過ぎない〕 よく分別ができるということである。 自らを知るは明(あきら)かたり。 〔しかし自分のことがよく分かっている人は、どのようなことでも、どのような相手でも深いところまで明らかに知ることができる〕 心に何の障害もない状態である。 人に勝るは力有り。 〔他人に優るには力があれば良いが、その力はその時々で違っている。一定の力を持っていればどのような場面でも相手に優ることができるわけでなない〕 外に向かって力を競うわけである。 自らに勝つは強し。 〔しかし自らに勝つことのできる人は常に強いといえる〕 自分に勝つのである。 足るを知らば富む。 〔自分で充分であると思うことのできる人は何時でも貧しさを感じることがない〕 どのような状態でも充分であると思えば、余裕があるものである。 強いて行うは志ある。 〔しかし、自分の思う通りに相手を動かそうとすると、それは叶うこともあれば叶わないこともある〕 他と争うことがなく、自分で努力を続けるのである。 その所を失わざれば久しく、 〔どのような状態になっても失われないもの(道)は永遠の存在である〕 あるべきところにあってどこかに行ってしまうことがない。 死して亡くならざるは寿(ひさ)し。 〔亡くなっても失われないもの(道)こそが永遠に存するのである〕 真性は湛然としており、死んでもそれは亡びることはない。

道徳武芸研究 手印と静坐(6)

  道徳武芸研究 手印と静坐(6) 法界定印と阿弥陀定印は等しく定印(瞑想のための印)であり同じ系統に属するものということができるであろう。阿弥陀定印では親指と人差し指で「輪」を作る。これを膝に置けばヨーガの智慧印となるわけで、ヨーガの手印は阿弥陀定印の系統に属するものと考えられる。親指と人差し指で「輪」を作る印は上品とされ、中指とであれば中品、薬指とでは下品とされる。実際に瞑想をしてみると上品の印が最も適当であるように感じられるが、中品、下品で瞑想をする人も居る。これらの違いは親指へのストレスの生じさせ方の差異によるもので、どれが良いというわけではない。ただ上品の阿彌陀定印は人差し指と親指で「輪」を作り更にそれを合わせることでひじょうに安定したストレスを親指に生じさせることが可能となる。そのためかなり強力に背骨を立てることができる。クンダリニーの覚醒や小周天の完成を促すにはひじょうに有効と思われる。興味深いことにヨーガの智慧印は古い図像にそれを見ることがなかなかできない。東京国立博物館の東洋館にはアジア各地の仏像、神像が多く展示してあるのでそれらを見ているが、大体は法界定印が結ばれている。膝の上で智慧印を汲むのは座が安定してい良いのであるが、その流行はヨーロッパ経由の「ヨガ」によるものなのであろうか。

道徳武芸研究 手印と静坐(5)

  道徳武芸研究 手印と静坐(5) 釈迦は人が生きることは満たされない思いを抱えて行くこと(苦)であると悟った。そして満たされない思いが生じるのは、あらゆるものが変化をしているのに、それを正しく認識できないことによると考えたのである。そうであるから正しくあらゆるものを見ることができれば満たされない思いは生じることがないと教えたのである。この方向で瞑想をするのが「止」である。一方、思いとはイメージであり、たとえば「生き続けていける」と思うイメージがあるので、急に人が亡くなったりすると悲しみという「苦」が生じるのであるが、「生き続けていける」というイメージを意図的に脱することができれば「苦」は生じることがなくなる。このようにイメージを自由に操ろうするのが「観」の瞑想となる。バラモン教では「神格」などのイメージを強く持って、それに願いを叶えてもらおうとしたのであるが、仏教系ではイメージから脱することを最終的な目的としている。また「観」の手印は中丹田のあたりに構えるが、「止」では下丹田に置く。これらは「観」が神仙道でいう進陽火、つまりクンダリニーの覚醒を促すもので、「止」は退陰符で下丹田に気を鎮める効果があるからである。またこれらからはチベット密教などでいう生起次第(金剛界)、究境次第(胎蔵界)として分けられる傾向の端緒をうかがうことができるということもできよう。

第三十二章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

  第三十二章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】 この章では、道器の循環について述べている。道には名をつけることはできない。これを手を加えられていない木の「樸」として例えているわけである。またこれは形になる前ということで「小」とすることができよう。つまり天地はここから始まっているのである。万物はここから生まれているのである。天下において誰があえて臣下となろうとするであろうか。侯王となれたのは、よくこの道を守ったからに他ならない。つまり万物が自ずから賓客となって服してくれるのである。それは制圧するのではなく自ずから服するのである。これは天地の気が相い合って一つとなることであり、そこにはあらゆるものを育てる「甘露」が降される。侯王は至道を体して、物を制御する。それは天下に「命令」をするということであり、その「命令」は遍く行われて残すことがない。またそれは明らかでもある。そうなればその「命令」はどうして形が見えないということがあるであろうか。物が成るのは、「樸」をあえて器とするのと同じであり、そこには名が生じることとなる。聖人は生成の根源(根)に拘泥することなく、生成の根本(樸)をも忘れてしまう。そうであるから「道」に止まることが可能となる。止まるとは、道に復するということである。そうであるから千変万化する事態に遭遇しても道を失うという危ういところがない。これは譬えるに川や谷では水流が分かれているが、これらは必ず大きな川(江)や海でひとつになるのと同じである(あらゆる存在は道へと帰結する)。そうであるから生成の結果としての「器」も道とひとつなのである。つまり無名の樸へと鎮まることになるのである。 〔「道」はこの世には一定の法則があるとする考え方であるが、それがどのような法則であるのかが語られることはない。それは「淵(吸い込ませるような静けさ)」をイメージさせるような瞑想の生命の輝きの境地にあって感得できるものなのである〕

第三十二章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第三十二章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 道は常に無名たり。 〔道というものは、固定された概念ではない〕 「道は常に」とは、とは第一章の「常の道」のことである。「無名」とは、つまり第一章の「名が無い」ということである。 樸は小といえども、天下あえて臣とせず。 〔加工されていない木は、天下広しといえども、それを使うことはできない〕 無名の「樸(加工されていない木)」を小さいものの例えとしている。 侯王もしよく守れば、万物まさに自ずから賓たり。 〔統治する者がよく道を守ったならば、万物はまさに自ずからそれに従っているものである〕 「守」のは、樸を守るのである。「賓」とは、服するということである。 天地、相い合い、もって甘露を降す。人これに令することなくして自ずから均しき。 〔天と地とは共に助け合って生成の働きを行う。人は誰が命ずることがなくても、そのままで平等な存在なのである〕 「令」とは、命令をするということである。「均」とは、遍くということである。 始めに有名を制す。名また既に有り。 〔始めに器の概念(名)があってそれに従って器が作られる。概念(名)は器に先行して存している〕 「始めに(有名を)制す」とは、樸をあえて器とすることである。器ができればそこに名が生じる。 それまたまさに止まるを知らんとす。 〔そうであるから先に先入概念(名)にこだわらないようにすることで、他人に良いようにされることのない道を守ることができるのである〕 「止」とは、その名に係らないということである。そうなると還って樸がそのままであることができるのである。 止まるを知る。ゆえに殆うからず。道これ天下に在るを譬えるに、なお川谷の江海におけるがごとし。 〔先入概念にとらわらないことを知っていれば、道に外れる危険はない。こうした道がこの世に存している様子を譬えれば、川や谷の流れが、大河や海に集まるうようなものなものといえる。つまりどのような細かなこも最後には道とひとつになるのである〕 「川谷」とは、分流するところである。「江海」とは、合流するところである。

徳武芸研究 手印と静坐(4)

  徳武芸研究 手印と静坐(4) 初めに瞑想における手印の整理をしておくと、これはおもしろいことであるが、その系統は密教の金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅に代表されるものに大別されるのではないかと考えられるのである。金剛界と胎蔵界は共に空海が招来した曼荼羅であるが、本来は別々の系統で伝えられていたものとされており、これが中国で「一体」と考えられるようになって、日本では「金胎不二」などと称されている。金剛界も胎蔵界も共に中心に居るのは大日如来であるが、金剛界の大日如来は智拳印が、胎蔵界では法界定印が結ばれている。法界定印の「定印」は、つまり「瞑想(定)のための印」という意味で、仏教では最も多用されている。釈迦などもこの印を組んでいる。これはいうならば「止」の印とすることができよう。一方の智拳印は真言と観想(イメージ法)、手印が組み合わされるもので、これにより大日如来と一体化する多分にバラモン教的な色彩の濃い印となる。例えば不動明王なら不動明王で真言、観想、手印があり、対象とする神格と一体化しようとするわけである。これはいうならば「観」の瞑想ということができよう。イメージ(観想)によって神格を現前させて願いを叶えようとするわけである。

第三十一章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

  第三十一章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】 この章では、兵は王がやむ終えない時に用いるものであることを述べている。用兵を喜ぶ者は不祥の器である。そうであるからこれは憎まれる。そうであるから道を体得した人は、常にそうしたものを用いることはしない。通常の時には「左」が貴ばれる。そうであるから兵を用いるものは「右」にあることになる。つまり兵を用いるのは不祥であるからでありこれは君子が楽しんで用いるものではない。必ずこれを用いるのはやむを得ざる時だけにする。兵を用いる時には恬澹(心静か)としていられるのであろうか。恬澹とは静であるということである。静であるとは、これが勝つことの本質である。そうであるから君子は、兵を用いて勝っても喜ぶことはないのである。兵を用いて勝って喜ぶのは、殺人を楽しむ者である。殺人を楽しむ者は、どうして天下に志を得ることができるであろうか。つまり吉事は兵を用いない「左」となるのであり、凶事は兵を用いる「右」となるのである。そうであるから兵を使う時には、偏将軍(副将軍)は「左」に居て、上将軍は「右」に位置することになる。それは葬礼で並んでいるのと同じである。つまり人を殺すことが多ければ、つまり悲しんで泣く人が多いことになる。そうであるから戦って勝っても、終には祝祭ではなく葬礼を行うことになるわけである。兵を使うのはやむを得ない時だけであり、これを喜んで用いることはするできではない。 〔兵を用いることは「殺人」を行うことである。老子は「生命の喪失」を最も好ましくないことの基準としている。戦争において兵は自分が殺されるだけでなかく、相手をも殺すことになる。これは二重に好ましくない行為といえる。戦争はたとえ勝ったとしても、道に外れた行為であることには変わりがない。戦勝を祝祭とするのは収奪者が作ったまやかしである〕

第三十一章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第三十一章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 それ佳(よ)き兵は不祥の器なり。物つねにこれを悪くむ。故に道は処とせず。 『一般的に優れた軍隊とされるものこそが不幸の器なのである。存在するものすべてが、これを憎んでいる。そうであるから道にある者は軍隊にかかわることはない〕 「佳兵」とは、喜んで兵を用いることである。「処とせず」とは、兵を用いて問題を解決するということであり、これは通常のことではない。 君子の居るは、すなわち左を貴ぶ。兵を用いるは右を貴ぶ。 〔道を体得している君子は左を良いとする。しかし軍隊を用いる者は右を喜ぶものである〕 左は陽である。陽では生まれる働きを主とする。右は陰であり、陰では枯れる働きを主とする。 兵は不祥の器、君子の器にあらず。やむを得ずしてこれを用いる。恬澹(てんたん)を上となす。勝って美(よ)からず。しかして美(よ)かれば、これ殺人を楽しむ。それ殺人を楽しむは、天下に志を得るべからず。 〔軍隊は不幸の器である。これは君子の使うべき器ではない。どうしても軍隊を用いなければならないのは仕方のない時に限られる。君子は心が靜であることを重んじる。そうであるから軍隊を用いて戦争に勝っても好ましいとは思わない。好ましくないのは、殺人を楽しむからである。このように殺人を楽しむ者は、殺人そのものが道に外れた行為であるからそれを通しては真に自分の思いを遂げることはできない〕 「恬澹」とは、安静であることである。「美ならず」とは喜ばないということである。 吉事は左を尚び、凶事は右を尚ぶ。偏将軍は左を処とし、上将軍は右を処とす。上の勢(ありさま)の居たるを言わば、すなわち喪礼をもってこれを処とす。殺人、衆多、悲しみをもってこれ哀泣す。戦勝、喪礼をもってこれを処とす。 〔良いことは道と同じく左を重んじる。悪いことは兵と同じく右を重視する。副将軍は率先して戦争をしないので吉事と同じ左とできよう。戦争を指揮する上将軍は凶事と同じ右ということになる。上将軍の様子がどのような状態にあるかと言えば、それは葬礼と同じである。人を殺すことが、きわめて多ければ、悲しみが深くて涙が出る。戦いに勝っても、そうであるから祝祭ではなく葬礼を行わなければならないのである〕 偏将軍という職は、上将軍の下である。偏将軍は左に居て、上将軍は右に居る。勢(ありかた)をしてこれを言うなら、下であ

道徳武芸研究 手印と静坐(3)

  道徳武芸研究 手印と静坐(3) しかし実際に静坐をしようとするなら足の組み方、手の扱いなど、どのようにしたら良いのか、困ることも少なくない。ここでは特に手印について考察をしてみたいと考えているが、瞑想時における手印の形は坐禅などで見ることのできる法界定印がよく知られている。またヨーガでは膝の上で手印(智慧印 チン・ムドラー)を組んでいる。これらの形はいうまでもなく意識の状態と深く関係している。つまり意識の集中(三昧)の様態が同じではない、そのために手印が異なるわけである。こうした違いで鍵となるのが「親指へのストレスの掛け方」であろう。たとえば法界定印では親指の先を触れるだけであるが、ヨーガの智慧印では人差し指と組み合わせて「輪」を作るので法界定印よりは親指へのストレスは大きくなる。親指にストレスを加えることは体に一種の緊張をもたらす効果があり、背骨が立つことになる。背骨が立つと心身の気血の流れが円滑になるのでクリアーな意識状態で瞑想をすることが可能となる。こうしたことをヨーガではクンダリニーが覚醒するするのであるし、神仙道では小周天が完成したといっている。こうした手印は「印契(ムドラー)」と称されるものの一部で、ヨーガでは体全体を使う「印」もある。密教の智拳印などは胸の前に構えるので、法界定印に比べれば体を使う傾向が強いとすることができよう。

道徳武芸研究 手印と静坐(2)

道徳武芸研究 手印と静坐(2) 「敬」は山崎闇斎も垂加神道で重視しており、これを土金(どごん つちかね)の伝としている。土金の伝とは五行説で「土は金を生む」によるもので、日本神話に見られる「国土」の形成が土が締まってできたものと考えて、これは土が締まって鉱物(金かね)となるのと同じであるから「土生金」であり、「土しまる」つまり「つつしまる」そしてここから「つつしみ(敬)」を導き出す。つまり「敬」には不安定なものが安定する働きがあると考えるのである。ここでいう「国土」は静坐では「心身」のこととすることができるので、「敬」字は精神と肉体と整える働きを象徴するものと解することができる。山崎闇斎自身は伊勢神道など中世神道の「秘伝」も積極的に研究していたが、結局はそうしたものを静坐として大成することはできず、垂加神道ではかえって中世神道の「迷信」の中に埋没してしまった感も否めない。要するに静坐とは心身を「敬」の状態に安定させることに他ならないわけで、それに至る方法はどのようなものを使っても、あるいは使わなくても構わないのであるが、静坐ではただ坐ることのみでそれが果たされると考える。

第三十章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

   第三十章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】 「人主」となるのは無為なる人である。そうであるから道をして人を助ける人の主となるのであって、兵をして天下に覇権を唱えようとするのではない。道をして天下を服せしめるのである。それは天下をあえて服さしめるのではない。兵をして天下に覇権を唱えれば、それは拒否を受けて、抵抗されることになろう。およそ天の時、地の利は、これまで自分を害することはなかった。そうであるからよく兵を用いる者は、実際に戦争をしなくても敵に克つことができるのである。自分の力を過信して覇権を推し進めることはしないのである。そうであるから敵に克っても、自分は驕る(矜)ことがない。伐(ほこ)ることはなく、驕ることもない。その心は誠であり、行うべきことだけを行うのであるから、強いて何かを行うこともない。これが道であり、柔を守って強と為すことを重視するのである。こうであれば殆(あや)ういこともない。柔を棄てて壮を求めたならば、壮は必ず老いるものであるから、これはどうして常の道とすることができるであろうか。つまり「早く已(や)む」のである。そうであるから兵をして天下に覇道を敷くことはないのである。 〔他人に何かを求めたり、強いたりすることは好ましくない。あるがままであれば良いのである。たとえ自分の行為(好意)が相手に通じていないように見えてもそれは陰徳を積むことになっている〕

第三十章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第三十章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 道をもって人主を佐(たす)くるは、兵をもって天下に強いざれ、その事、好く還る。師の処(お)るは荊棘、生ず。大兵の後、必ず凶年有り。 〔道をして指導者を助けようとするのであれば、戦争をして良い世の中にしようとしてはならない。道に外れる行為は自分に還ってくるものである。軍隊の働くところは土地も人心も荒廃してしまう。大きな戦争のあった後には必ず善くないことが起きるものである〕 「好く還る」とは、兵が帰って来て報告をするということである。兵が駐屯しているところでは民政が適切に行われることがない。そうであれば田も荒れてしまう。殺気が勝ることになって、その年の収穫がだいなしになる。 善は果たすのみ。あえてもって強を取らず。 〔善なる行為はそれを行うのみで、あえてそれを相手に強制することはない〕 善く兵を用いる者は、結果を出すものである。敵に勝つことができるものである。やむを得ない場合を除いては「強」を取ることはない。 果たして矜(ほこ)るなく、果たして伐(ほこ)るなく、果たして驕ることなく、果たして已むを得ず、果たして強ることなし。 〔善を行っても相手に誇ることはないし、自慢もしない。驕ることもないし、ただ当然のこととして行うのみであり、何ら相手に求めることはない〕 「矜」らないのは、その能力である。「伐」ないのは、その功績である。「驕」らないのは、その勢いである。そうしたものを果たしても、常に自分からやったというのではなく、やるべきことであるかた行っただけなのである。これが結果を出して(果)、強きを取ることのない道なのである。 物、壮なればすなわち老いる。これを不道と謂う。不道は早く已(や)む。 〔なんでも盛りを迎えれば次には老いへと向かう。これは道によるあり方ではない。こうした一時の栄えを見ている道ではないあり方は長く続くことはない〕 「物、壮なればすなわち老いる」とは、物において当然そうなるべきことである。つまり「道」なのである。ここでは柔を守って強と為すことを重視すべきである(柔だけに偏してそれを失うのではなく、強だけに偏してそれを失うこともない。柔の中に強を認めてバランスよく柔と強を使う)。そうなれば「道」より外れることはない。

道徳武芸研究 手印と静坐(1)

  道徳武芸研究 手印と静坐(1) 我が九華派八卦掌居敬窮理学派の居敬窮理学派の部分の伝承は儒教の系統によるもので、ここに静坐が伝えられている(九華派については『植芝盛平と中世神道』で触れているので参照していただきたい)。一般に儒教の静坐は特別なテクニックを用いることはない。居敬窮理学派では、ただ敬字訣があるのみである。静坐では雑念というような考え方はせず、ただ流れる想いをそのままに見つめていれば良いとされている。ただ靜に座っていればその内に「静=敬」の境地に徐々に入ることができる。しかし、心がどうしても静まらない初心者には敬字訣を用いることを教えている。また朱子は『朱子語類』で鼻の頭を見ると良いとしてている(これは坐禅やヨーガなどでも同じことが言われている)。敬字訣は敬が「チン」で「静(チン)」と同じ音であるため「敬」をイメージすることで「チン」という音が感じられ、それが「静」への連想を導くので自ずから心は静まるわけである。ただ、これは中国語を日常的に使っていない人には生じにくいことでもある。これは日本でいうなら言霊の行法ということができよう。同じようなものに気功には「六字訣」があるし、趙避塵は「オン・マニ・ペメ・フーン」の観音の真言を使う行法を伝えている(『性命法訣明指』)。言霊というと日本独特の行法のように思われるが、中国でも似たようなことはあったようである。

第二十九章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

  第二十九章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】 聖人は「樸」を抱いて天下を治める。そうであるから「真実に物事を作るとは手を加えないことである(大いなる制は割かず)」(第二十八章)とされるのであり、天下は「何もしないこと(無事)」をもって取ることができているのである。天下を治めるのは「無為」をして行えば治まっているのである。これらは具体的にはどのようなことなのであろうか。もし意図的に天下を取ろうとしたならば、求めて得ようとしたならば、天下を得ることはできない。それは天下は神器であるからである。ただ神の道によってのみそれをコントロールすることができるのである。「神」とは思いを持つことがないということである。無為ということである。しかし意図的に天下を統治しようとすると、これは「神」の「道」ではないことになる。そうであるからコントロールはできないのである。意図的な行動とは求めて得ようとすることである。そうならば失敗する。「執」るとは求めて得ることである。そうなるとこれを失ってしまう。確かにあらゆる物にはそれぞれに「自然の性」がある。そうであるから前後や温寒の違いがある。剛弱、動止の差異がある。こうした相反するものが存しているのが「道」なのであり、誰でも分かる程に易(やさ)しく、簡単で、理にかなっている。そうであるから自得することができるのである。それぞれの「性」には相反するものがあることを知らないで、行動をするなら、煩わしいく、疲れてしまうことであろう、あらゆる存在はいよいよ崩壊に向かうことになろう。そうであるから聖人は極端なこと(甚)を行わないのである。奢りを持たないのである。泰らかさに安住しないのである。そうして極端へと至らないことで反対のものを生じさせないようにする。そうなると天下の憂いは無くなってしまう。 〔すべての人はそれぞれが「天下」であり「神器」であるので等しく尊重されなければならない。そうであるから搾取をされたり犠牲を求められたりする人が出るべきではない〕

第二十九章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第二十九章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 まさに天下を取らんと欲すれば、これを為すに、吾、その得ざるを見るのみ。 〔天下を取ろうとして、それを実行する時、わたしは天下というものと一体となっているのであるから、別に「天下」というものの存在を認めることはない。天下を得ようとした時、既に天下は得られているのである〕 聖人は「天下」と一体となっている。そうであるからそれを取るということはない。万物(つまり天下)が聖人のもとに帰するだけである。それが天下を治めることになっている。殊更に天下を取ろうというのではないのである。そうであるから聖人が天下を取っても取らなくても万物は自然のままにある。もし意図的に天下を取ろうとしたならば、そうした自然な状態を保つことができなくなる。 天下は神器、為すべからざるなり。為すはこれ敗る。執るはこれ失う。 〔天下とは聖なる存在(神器)である。そうであるからそれに意図的に係ることはできない。もし強いて意図的に「天下」に係わろうとしたなら「天下」は滅ぼされてしまうであろう。また自分とは別に「天下」を求めようとしても求められることはないであろう〕 意図的に行えば自然を壊すことになる。そうであるから失敗する(敗)のである。意図的に天下を執ろうとしても、自然の変化に適合できないので、結果として執ることができなくなる(失)のである。 故に物、或いは行き、或いは随い、或いはいきはき、或いは吹き、或いは強く、或いはよわく、或いは載(みち)て、或いはすたる。 〔そうであるから聖人や天下といった存在は、あるいは自分で運動するし、また他のものに付いて運動することもある、あるいは自分で息を吐くこともあるし、また他のものに息を吐き掛けることもある、あるいは強くあることもあるし、また弱くあることもあり、あるいは満ち溢れることもあるし、また廃れてしまうこともある〕 天下の物は、それぞれ自然の性を有している。「或いは行き」となれば先んずる。「或いは随い」となれば、後れてしまう。「或いはいきはき(息吐き)」となれば体が温まる。「或いは吹き」となれば、冷たくなる。「或いは強く」となれば、剛となる。「或いはよわく」となれば、弱くなる。「或いは載せ」となれば、(車などの乗るので)動く。「或いはすたる(廃る)」となれば(乗る物が使えなくなるので)活動が止まってしまう。これらは相反す

道徳武芸研究 中国武術の中の教門武術(6)

  道徳武芸研究 中国武術の中の教門武術(6) モハメド・アリの独特な歩法が実戦で有利であることをブルース・リーは「ドラゴンへの道」の最後の格闘シーンで示そうとした。そのシーンは、一般的な格闘技の歩法を使って主人公(ブルース・リー)が追い込まれるものの、後半ではアリのようなステップを使って強い攻撃を放つ相手を翻弄し、勝ちを得るという展開となっている。ただこのシーンでは強力な相手の攻撃を避けるという点において歩法が使われていてアリのような「跟歩」への展開は視野に入っていない。梢節からの動きは一瞬早く相手に到達する。これだけであればボクシングのジャブと同じなのであるが、それと同時に体が前進することで同時に推進力を得ることを可能としているのが形意拳の「跟歩」なのである。往々にして「跟歩」は継ぎ足のように誤解されているが、重要なのは重心の移動(鶏足)にある。継ぎ足のようになるのは重心が前に移動した結果であるに過ぎない。これに加えて重要なのは脇の締め方(熊膀)である。形意拳では重心の移動を明確にするために跟歩をとるのであるが、実戦では必ずしも継ぎ足となる必要はなく、ただ重心が前に移動すれば良い。また脇の締め方は、アリの肩と肘と拳の位置関係をよく見れば分かるが多くのボクサーが腰の動きをそのまま拳に伝えようとするために脇を強く締めているのに対して、アリはかなり緩やかである。これは腰の動き(根節)から動きが起こっていないからに他ならない。跟歩の動きはあくまで拳の動き(梢節)から生じているのである。

道徳武芸研究 中国武術の中の教門武術(5)

  道徳武芸研究 中国武術の中の教門武術(5) それでは形意拳(心意拳)の動きが人間の根源的な心の動きを宰る「性」によるものであるとして、梢節から動くことの武術的な利点はあるのか、ということについて触れてみたい。二十世紀に民国が開かれてから幾つかの武術の試合が記録されているが、そうした中に必ずといって良い程、形意拳家が入賞している。また天下第一とされた郭雲深、生涯無敗であったともされる李存義など、とにかく名人達人が多いのがこの拳の特色でもある(日本で有名な王樹金も卓越した実力を示していた。このことは、w・ニコルの『バーナード・リーチの日時計』などにも記されている)。こうした形意拳の奥義を自然に体得した人物にモハメド・アリが居る。アリの独特のステップは形意拳的に言うなら腰を入れないで拳を出すためのものであったということができる。腰を入れない、つまり梢節から動きなので早く相手を攻撃することが可能となった。そして前に出る勢いを利用することで威力を得ることができたのである。実はこれは形意拳の跟歩と同じ原理なのである。形意年の奥義が「自然」によるものであるからモハメド・アリのような天才は学ばずしてそれを会得してしまったのである。

第二十八章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

  第二十八章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】 この章では、聖人は何らの「特化」を求めることなく、玄と同化している、そのあり方について述べている。天下の事は、柔は柔だけで完結しているのではない。かすかであることは、それだけで存しているのではない。それらは反対のものがあるから存しているのであり、それが理にかなっている存し方なのである。下は、それだけで成立しているものではない(上があるから下があるのである)。聖人であれば「雌」には必ずそこに「雄」があるのを知っている。「黒」にはそこに「白」のあるのを知っている。「辱」のはそこに「栄」のあるのを知っている。そうであるから「剛」は「剛」から生まれることはなく、「柔」に生まれるのである。「明」は「明」に生まれるのではなく「晦」から生まれるのである。「高」は「高」から生まれるのではなく、「下」から生まれるのである。このため聖人は必ず「雄」であれば見えていない「雌」を守ろうとする。「白」であれば見えていない「黒」を守ろうとする。「栄」であればその「辱」を守ろうとする。聖人はこのように見えない反面のを守るのである。そうであるからあらゆるものが集まる「渓」となり、「谷」となり、あらゆるものを理解できる「式」となるのであり、天下のあらゆることはここに帰している。まさにこれが「真常の徳」なのであり、聖人はこれから離れることはないのである。「真常の徳」は「嬰児」であり、「無極」であり、「樸」である。まさに人はだれでもこの道を有している。そうであるから、これに「帰」すると言うのである。「樸」もこれが壊れてしまうと「器」となる。これが「道」なのであり、道とは「形而上」のものである。つまり「樸」は形而上のものであるが、「器」は形を持つもので、結果として出てくるものであるから、これは「形而下」のものとなる。聖人は「形而上」の存在であるが、それが何らかの働きをした場合は「形而下」の存在となるのである。つまり、「樸」は形而上のものであり、「官長」は形而下のものである。およそ物を作ろうとするなら、必ず自然の状態を壊さなければならない。手を加えなければ製品を得ることはできない。「大制」とは、つまり制制限することのない制限なのである。それは他には「樸」とされるものであって、民は本来はあるがままであれば良く「官長」などは必要ないのであるが、実際に円滑に統治を

第二十八章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第二十八章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 その雄を知るは、その雌を守りて、天下の渓(たに)となる。天下の渓と為れば、常徳と離れず。ま嬰児に帰す。 〔物事の男性原理をよく知ろうとするのであれば、そこに含まれている女性原理が分からなければならない。そうしてこそあらゆることの男性原理と女性原理を見ることができるようになるのである。そうなれば「常徳」と一体となることができていることになる。それはまた本来の自分を見出すことでもある〕 「雄」とは、剛強であることを示している。「雌」とは、柔弱であることを示している。「知」とは運用の意である。「守」は主宰の意である。「渓」は水の帰するところである。「常徳」とは、つまり常道ということである。人が生まれた時には常徳が失われていない。しかし、物質的な世界に触れる内に次第に常徳から離れて行ってしまう。そうであるから常徳と離れることがなければ、それは嬰児、つまり道に帰することになるのである。 その白きを知り、その黒きを守れば、天下の式と為る。天下の式と為れば、常徳たがわず。また無極に帰する。 〔物事の一面を知ろうとするなら、その反面を知らなければならない。それらを共に知ることができたならば、あらゆることの「法則」を知ることができる。そうなれば「常徳」と一体となることができて、偏りのない見方ができるようになる〕 「白」とは、明らかということである。「黒」とは、明確でないということである。「式」とは、天下の法となるということである。「たがわず」とは、失われることがないということである。「無極に帰する」とは、「嬰児」と同じで言い表すことができない「道」のことである。 その栄(ほまれ)を知り、その辱(はずかしき)を守れば、天下の谷と為る。天下の谷と為れば、常徳すなわち足る。また樸に帰する。 〔真の栄光を知ろうとするのであれば、そこには恥辱の含まれていることを知らなければならない。これらが分かれば栄光にも恥辱にもとらわれることがない。そうなれば「常徳」を開くことが可能となる。それは本来の自分に還ることでもある〕 「栄」とは、尊ばれるということである。「辱」とは、卑下することである。「谷」とは、また水の帰するところである。「常徳すなわち足る」とは、特に「常徳」と違うことがないということである。「樸」とは、完全なる真のことで、混沌とした物のことである

道徳武芸研究 中国武術の中の教門武術(4)

  道徳武芸研究 中国武術の中の教門武術(4) 形意拳では人の「自然な動き」は梢節からのものと教えている。例えば思わずテレビのリモコンを取ろうとした時、腰を充分に入れて取るであろうか。こうした時にはただ手を伸ばすだけであろう。しかし相手に突きを入れるような時には充分に体を沈めて腰を効かせるようにする。形意拳ではこうした動きを不自然であるとして、ただ手を伸ばすような動きこそが「自然な動き」なのであり、それを開くことで「形」と「心」は一致することを見出したのであった。もちろん腰を入れる動きであっても、「形」と「意」を合一させることは可能であり、それは多く行われている。つまり「形」と「意」だけをいうのであれば、わざわざ梢節の動きを言う必要はなく、一般的な根節(腰)からの動きで良いことになる。形意拳で特別に梢節からの動きを重視するのは、それが最終的には道芸としての「形」と「心」との合一を視野に入れているからに他ならない。

第二十七章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

  第二十七章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】 この章では、聖人の行いについて述べられている。それは「静」であり「重」いものではあるが、その実これを名付けることはできない。善く行い、善く言い、善く計り、善く閉じ、善く結ぶ。これらは皆、常に善なるものである。ただ常に善である人は、多いとはいえないし、物でも少ないとはいえない。人と物とは常に存在しているが、真常を失っている。そうであるから聖人は何時も真常をしてこれらを救っているのである。真常をもって人を救うのであるから棄てるべき人はいない。真常をして物を救うのであるから棄てるべき物はない。つまり人も物も共にその価値をよく知っている(明)からである。ただ聖人だけがどのようなところでも価値を見出すことのできる「常の明」を持っているのであり、それによって人も物も等しく価値を見出して救っている。ただ、そうした価値を知ることのできる「明」は、誰でもそれを見ることのできるものではない。そうであるからこれを「襲明(覆い隠された明)」という。聖人は「襲明」を有しているので、善なる人であっても、不善なる人であっても師とすることができるのである。不善の人は善なる人の参考(資)となる。人の不善は、どうしてこれを棄てて良いものであろうか。ただ聖人は己を忘れ(己へのこだわりを無くし)、物を忘れ(物へのこだわりを無くし)ており、その「師」を一般の人のように貴いとすることもないのであり、その助け(資)の愛すべきことにもこだわることはない。つまり善も悪も共に忘れているのである。どのようなところにも固定した価値を認めないということでは渾然に化しているようではあるが、それは本当の渾然である「反本(本に返える)」「本原(道の本源)」にあるということではない。独り道の妙を人や物の上に観ているだけなのである。 〔物事がうまく行って「良い」と思われることが結果として「良い」となるかどうかは分からない。また失敗して「悪い」と思ったことが結果として「悪い」ことになるかどうかは分からない。老子はうまく行くのも失敗するもの「同じこと」であると教えている。大切なことはプロセスであり、そこで得られたものは結果がどうであっても失われることはないのである〕

第二十七章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第二十七章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 善く行けば、轍(わだち)の迹(あと)無く、 〔道によって(善によって)物事が進められたならば、それはどうやってそうなったのか分からないものである〕 理に従って行くので、迹(あと)が無いのである。 善く言えば、瑕(あやま)つも謫(つみ)せらるること無く、 〔道によって(善によって)発言をしたならば、それは道にそった発言となるので、たとえ間違っていても、それが咎められることはない。間違いが気づかれないのである〕 適切な時に適切なことを言う。そうであるからどのようなことを天下に向かって言っても身を誤ることがないのである。 善く計るは、籌策(ちゅうさく)を用いず、 〔道によって(善によって)計画をする者は、ただ道にそって動くので、殊更に計略を立てたりはしない〕 万物の働きというものは、その可能性を全てあげようとしても、そのすべてを考え尽くせるものではない。どうして籌策(はかりごと)を用いることができるであろうか。 善く閉じるは、関ケン無くして、開くべからず。善く結ぶは、縄を約(むす)ぶことなくして解くべからず。 〔道によって(善によって)戸締まりをしようとする者は、盗人の居ないことを自ずから知っているので戸に鍵を掛けたりしないものである。道によって(善によって)縄を結ぼうとする人は、縄を解こうとする人の居ないことを自ずから知っているので、あえて縄を結ぼうとはうしない。そうする必要がないからである〕 「ケン(木偏に建 閂かんぬきの意)」は、二つの門扉を一つにして開かないようにするものである。横に鍵を掛ければ「関(横木の意)」となり、縦であれば「ケン」ということになる。「結」はつなぐということである。完全なる徳を持っている人は、万物において生成の原理と一体となっているので、母の子に対するが如くである。そうであれば立ち去っても関係性が切れるわけではない。そうであるから関(かぎ)を掛けなくても、信頼という調和が破られることはないので戸締まりは完全なのであり、縄が無くても関係性という「縄」は結ばれているのである。 これをもって聖人は、常に善く人を救う。故に人を棄てること無し。常に善く物を救う。故に物を棄てること無し。これを襲明と謂う。 〔つまり聖人は、何時も道によって(善によって)人の価値をどのような場面でも見出すことができる。どのような

道徳武芸研究 中国武術の中の教門武術(3)

  道徳武芸研究 中国武術の中の教門武術(3) ちなみに八極拳は、手を拳ではなく五指を折り畳んだ「把子」をして套路を練れば相手を引き込んでの攻撃が可能となり、その効果は絶大である。これは鷹爪功とすることも可能であろう。八極拳が肘打ちを主とするのは相手を掴んで崩して倒れ込むところをカウンターで打つからである。掴まれた相手が倒れ込んで来るわけであるから間合いはごく近いものとなる。そうなれば当然、肘しか使えないわけである。また形意拳は「形」と「意」の合一を目指すとされるが、それはどの拳術においても言われていることである。こうした場合には「意」の使い方は「目」に現れるとされていて視線の使い方である「眼神」が重視される。ただ形意拳の目指すのはそうした一般的なレベルではなく、心意拳で示されるような「心」と「意」の合一にあるのである。つまり、最終的には「形=意=心」が合一するわけであるが、それはどういった状態において生じるかというと「自然な動き」においてである。「自然な動き」とはどのような動きかといえば、それは「性」による動きでなければならない。「性」とは人の根源的な意識のあり方、働き方をいう。そして、それは「自然」であるとされ、〔性」の働きが十全であれば、天地自然のままに生きて行くことができるとされるのである。

道徳武芸研究 中国武術の中の教門武術(2)

  道徳武芸研究 中国武術の中の教門武術(2) 譚腿は弾腿といわれることもあるが、この違いは重要で「譚」には「柔らかでのびのびしている」という意味がある。この段階の練習では体を開くことを重視しているので伸び伸びとした動きで拳を練る。特に蹴りは高く蹴る。これで四肢を開いたら、実戦技法としての寸腿を加えて弾腿を練る。「弾」は寸腿の飛び出すような勢いを示していて、「寸」はその低さをいう。寸鯛では地面から3センチくらいのところを蹴る。こうした蹴りは八卦拳でいうなら相手に見えない蹴りである「暗腿」に属するもので、相手の動きを止める「截腿」としても有効である。譚腿、弾腿の違いは練習の段階をいうもので、これと同様なことは形意拳にも見ることができる。形意拳と心意拳である。また八極拳と把子拳も同様で、こうした名称の違いで練習の内容の違い、いうならば表と裏を示すのはイスラム系の武術に特徴的に見られるものとすることができるのかもしれない。譚腿、形意拳、八極拳も、弾腿や心意拳、把子拳も動きにおいて大きな違いがあるわけではないが、少し動きを変化させることで実戦においては雲泥の差異が生じる。漢族の武術が基礎の母拳と実戦の砲捶のように套路を分けるのに対して、イスラム系の武術ではただひとつの套路に「秘訣」を加えて実戦技を練るのである。これは回族が少数民族として、しばしば漢族との闘争関係にあり、極秘に実戦的な武術を学ぶ必要があったためと思われる。表面的には一般的な武術の套路を練っているように見せて、実は実戦套路を練習することが可能であったわけである。

第二六章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

  第二六章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】 この章では天下を治める道について述べている。「軽」いものは先に感じられて、「重」いものはその後に「軽」さに応じて感じられることになる。応ずることは、感じることから自ずから導き出されるものである。つまり「重」いものは、「軽」いものが根となっていることになる。「靜」かであれば状況をよく判断することができるのでいろいろな物を使うことが可能となる。一方「躁」しければ状況を正しく判断することができないのでいろいろな物に使われてしまうことになる。そうであるから「躁」しい状況は常に「靜」かな状況に従うことになる。つまり「靜」けさは「躁」しさの君主であることになるのである。そのために聖人は終日、行動は慎しみをもってなされている。そうした中にあって「軽重」を離れることはない。軽いものだけを見て、重いものが存在しないとは考えないのである。栄えた様子(栄観)があるとしても、それだけを重んじることはないのであり、必ず衰えている処のあるのを知って、そうしたものから超然としているのであり、そうであるから心安らか(燕処)に居ることができている。つまり「躁」しければ心は安らかでいることはできないわけである。初めに「靜」かであれば、(「静」の中には「動」が含まれているので)後に「動」くこともできる。そうしてここに生じることになるのはつまり「重」さという価値判断である。無為であれば「靜」かとなる。「静」でなければ、これはごく「細」かということになる。つまり嬰児よりの「一」なる物も、またこれに従うに充分なものとなるのである。「靜」「細」「一」これ以外に何をもって天下を牽引して行けるであろうか。 〔あえて重要ではない方に眼を向けることで、重要なものへの執着から離れることが可能となる。それらは共に本質的には優劣を持つものではない〕

第二十六章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第二十六章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 重きは軽きを根と為す。靜かなるは噪(さわ)がしきを君と為す。 〔重んぜられるものは、軽ろんぜられるものがあるから存在している。靜けさは躁がしさがあるからこそ存在している。つまり良いとされるものは、悪いとされるものがなければ存在することはできないのである〕 「根」とは根本のことである。「噪」とは動きの甚だしいことで大変に煩わしいものである。重いものは軽いものがあるので重さを感じられる。靜かであることは噪がしいことがあるので静かであると感じられるのである。そうであるから重いものは軽いものによって生み出されているのであり、靜かであることは噪がしいことを君主として存しているのである。 これをもって聖人は終日、行くも、軽重を離れず。栄うるを観て、燕(くつろ)げる処の有るも超然とす。 〔そうであるから聖人は一日中、どのような行動においても、ものごとの反対面を見ることを忘れはしない。繁栄しているところを見ても、それは衰退しているところがあるからであると知っているし、くつろげるとことがあっても、それはそうでないところがあるからであることを知っているので、ともにとらわれることはないのである〕 かつて吉行(祭りの行列)、師行(軍隊の隊列)には、すべてその後ろに軽車(小型の車)がついていたものである。そしてそれに乗せていたのは衣服や食器であった。こうした軽い物でも多く積めば重くなる。そうであるから「軽重」としているのである。「栄うるを観て」とは、華やかなところを観るということである。「燕げる処」とはくつろげるところに居るということである。「超然」とは、高く超え出ていて係ることがないということである。 いかんぞ万乗の主にして、身をもって天下を軽んず。軽んずればすなわち根を失う。躁(さわ)げばすなわち君を失う。 〔どうして大国の主となっても、自分個人の肉体よりも国家を軽いものと見るのか。国家を自分の肉体よりも軽いものであると認識したなら比較の根本となっている肉体への執着からも離れることが可能となる。それは躁げば靜かな状態が失われるような当然の道理として導き出されることなのである〕 「身をもって天下を軽んず」とは、身をもって天下の小人を使い尽くすことである。軽ければつまり自然にその根本を失う。躁げばつまりその主とするところを失う。

道徳武芸研究 中国武術の中の教門武術(1)

  道徳武芸研究 中国武術の中の教門武術(1) この時期になると岡田明憲氏のことを思い出す。岡田氏はゾロアスター教の研究家で、武術にも詳しい。同氏とは三十年ほど前にある人の紹介で知己を得た。それ以来、年に二度、三度お会いするくらいの付き合いであったが、この時期には決まって調布のシャノアールという喫茶店でお会いしていた。また布多天神社の境内で譚腿や形意拳、八卦掌の演武を所望されたこともあった。そして九華派の儒教的な側面を高く評価されていた。当時は儒教よりも道教の方が優れていると思っていたので、岡田氏の言われることが充分に理解できなかったこともなつかしく思い出される。同氏はもともと少林寺拳法の修行をされており、極真会との「抗争」の時にもいろいろと動いておられたと聞いた。岡田氏との交流は二十年ほど続いたが数年前に急逝された。その頃に一時期、新陰流を修行されていたこともあった。中国武術では特に「イスラム系」と言われる譚腿や形意拳に強い興味を示された。これらの拳法が柔術的な擒拿としての展開も可能であること、また一手、一手が分かれていて漢族の武術のような一連の套路にはなっていないことなど、日本の武術との類似性を考えておられたようであった。イスラム教は教団として日本に入って来ることはなかったが、中国では回教徒、回族が一定数居て、中国武術でも「教門」として高い評価を受けている。譚腿や査拳、八極拳、通臂拳、形意拳など数多くの名拳とされるものが回族と関係の深いものとして知られている。

第二十五章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

  第二十五章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】 この章では道が「大」であることを教えていて、これを「王」と等しいものとしている。道とは清くもないし、濁ってもいない。高くもないし、低くもない。渾然としたもである。これが人にあっては「性」となる。そのことを「物有り混成す」としているわけである。ここにあって道がどうやって生まれたのかを知ることはできないのであり、それは湛然として常に存している。道からは天地が生まれている。そこは「寂」として何らの音のすることもない。「寥」として何らの形を持つこともない。「独立して」いて同類となるものは存していない。いまだかつて変ずることなく、道はあらゆるものに働いている。道はいまだかつて存在を失うような「殆(あや)」うい状態に陥ったことはない。渾然とした状態から化して万物となっている。つまりあらゆるものの「母」なのである。道は本来は名を持つものではない。聖人は万物において道によらないものはないことを知っている。そうであるからそれに仮の名を付けて「道」としているに過ぎない。万物には道以外に加えるものはない。そうであるから道を強いて「大」と言っているのである。道を「大」とするのは、進んで行き着くこともないからであり、そうであるから道を「逝(いく)」とするのである。「逝」というのは、行って行かないところがないからである。そうであるから道を「遠」という。道を「遠」というのは、一念の生ずる短い間にあらゆるものが存しているからである。そうであるから「反」という。およそ道の大きいことはそのような一念の中に存しているのである。そうしたこの世(域)の中には四大がある。そして「王」は道に法っている。地に法っとるとは、地は無私であらゆるものを載せていることによる。天に法るとは、天は無私であらゆるものを覆っているかの如くであるからである。道に法るとは、道が無私で生成しているからである。このようであるから喜怒哀楽が適切を得て、天地に王として位することができるのである。万物を育てることができるのは、「王」は道により配された存在であるからに他ならない。そうであれば「王」がこうしたことを実行するのは何ら難しいことはないのである。 〔老子のいう「王」は道と一体となっている存在である。ただ、こうした「王」は実は現在に至るまで存在したことはない。これは西田幾多郎が戦中に「八紘

第二十五章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第二十五章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 物有り混成し、天地の先立ちて生ず。 〔物があるだけでは法則(道)が認識されることはない。例えば空間を天と地と認識するようになれば、そこに法則としての道が見出されるようになる〕 妙理は常に存している。そうであるから「物有り」とある。いろいろなところに道は存しているがそれを分かつことはできない。そうであるから「混成」しているわけである。道は天地を生む。そのため「天地に先立ちて生ず」とあるのである。 寂たるや、寥(りょう)たるや、独立して改めず。周行して殆(あや)うからず。もって天下の母たるべし。吾、その名を知らず。これを字(あざな)して道と曰う。 〔物質を支配する法則はその存在を主張することはない。それぞれの場面で働いていて、その例外はないので、どのような場面でも安心して法則にたよることができる。またこうした法則はいろいろなものへ応用することができる。私は個々のすべてを知っているわけではない。そうであるからここでは仮に「道」としておく〕 「寂」は音がしていない状態である。「寥」は形がない状態である。他に誰もいないのを「独立」という。過去から今にいたるまで常に「一」が貫かれているのを「改めず」としている。どこにでも存しているのを「周行」という。どこにでもあるのであるから「殆うからず」とする。「天下の母」であるのは、天下万物の生まれるところであるからである。しかし、その名は分からない。名付けるべきではない。 強いてこれの名と為せば「大」と曰わん。「大」は「逝」と曰わん。「逝」は「遠」と曰わん。「遠」は「反」と曰わん。 〔物質の法則は「道」といっても良いのであるが、更に名をつけるとすると「大いなるもの」とすることができよう。「大いなるもの」であるので「応用可能なもの」とすることもできる。「応用可能なもの」であれば「どこまでも可能性が広げられる」ともいえよう。このように「道」はいろいろなものに無限に応用できるのであるが、そうしたものもすべ簡単な法則へと「還元」されるのである〕 道を物質レベルでいうならば、すべてに存していて、全宇宙に広がっている。これを巻いて小さくしたならどこにあるのか分からない程に小さくなってしまう。大きくすればそれに名付けることもできなくなる程に大きくなる。その名は強いてこれに名付けているに過ぎない。道を大きくと