第二六章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

 第二六章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

この章では天下を治める道について述べている。「軽」いものは先に感じられて、「重」いものはその後に「軽」さに応じて感じられることになる。応ずることは、感じることから自ずから導き出されるものである。つまり「重」いものは、「軽」いものが根となっていることになる。「靜」かであれば状況をよく判断することができるのでいろいろな物を使うことが可能となる。一方「躁」しければ状況を正しく判断することができないのでいろいろな物に使われてしまうことになる。そうであるから「躁」しい状況は常に「靜」かな状況に従うことになる。つまり「靜」けさは「躁」しさの君主であることになるのである。そのために聖人は終日、行動は慎しみをもってなされている。そうした中にあって「軽重」を離れることはない。軽いものだけを見て、重いものが存在しないとは考えないのである。栄えた様子(栄観)があるとしても、それだけを重んじることはないのであり、必ず衰えている処のあるのを知って、そうしたものから超然としているのであり、そうであるから心安らか(燕処)に居ることができている。つまり「躁」しければ心は安らかでいることはできないわけである。初めに「靜」かであれば、(「静」の中には「動」が含まれているので)後に「動」くこともできる。そうしてここに生じることになるのはつまり「重」さという価値判断である。無為であれば「靜」かとなる。「静」でなければ、これはごく「細」かということになる。つまり嬰児よりの「一」なる物も、またこれに従うに充分なものとなるのである。「靜」「細」「一」これ以外に何をもって天下を牽引して行けるであろうか。


〔あえて重要ではない方に眼を向けることで、重要なものへの執着から離れることが可能となる。それらは共に本質的には優劣を持つものではない〕


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