道徳武芸研究 手印と静坐(5)

 道徳武芸研究 手印と静坐(5)

釈迦は人が生きることは満たされない思いを抱えて行くこと(苦)であると悟った。そして満たされない思いが生じるのは、あらゆるものが変化をしているのに、それを正しく認識できないことによると考えたのである。そうであるから正しくあらゆるものを見ることができれば満たされない思いは生じることがないと教えたのである。この方向で瞑想をするのが「止」である。一方、思いとはイメージであり、たとえば「生き続けていける」と思うイメージがあるので、急に人が亡くなったりすると悲しみという「苦」が生じるのであるが、「生き続けていける」というイメージを意図的に脱することができれば「苦」は生じることがなくなる。このようにイメージを自由に操ろうするのが「観」の瞑想となる。バラモン教では「神格」などのイメージを強く持って、それに願いを叶えてもらおうとしたのであるが、仏教系ではイメージから脱することを最終的な目的としている。また「観」の手印は中丹田のあたりに構えるが、「止」では下丹田に置く。これらは「観」が神仙道でいう進陽火、つまりクンダリニーの覚醒を促すもので、「止」は退陰符で下丹田に気を鎮める効果があるからである。またこれらからはチベット密教などでいう生起次第(金剛界)、究境次第(胎蔵界)として分けられる傾向の端緒をうかがうことができるということもできよう。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(8)

道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(6)

道徳武芸研究 八卦拳から合気道を考える〜単双換掌と表裏〜(4)