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道徳武芸研究 形意拳・劈拳で合気上げを練る(4)

  道徳武芸研究 形意拳・劈拳で合気上げを練る(4) 合気道の呼吸法では息を吸って相手との馴染を感じ(植芝盛平は「引力」という)、相手の力の流れをよく導いて吐く息において相手を投げる。こうした動きと息とのタイミングを微細なところまで一致させるのが呼吸法の鍛錬といえよう。劈拳を見ると腕をねじりながら上げて、相手の力との馴染を得る段階(合気上げ)と、掌で打つ段階(呼吸力)があることが分かる。ここに「合気上げ」と「呼吸法」を劈拳を通して見ると、大東流が崩しに重点があるのに対して、合気道は投げがより重んじられていることが分かる。つまり、これは相手の制する力からの離脱を主眼としていた大東流から相手を投げることを重視した合気道への変化であり、また剣術に付属する柔術技法から柔術そのものへの変化でもあった。この変化の中で「呼吸力」が強調されたのも(合気道では呼吸投げは多いが、合気投げについては実態さえも明確ではない)、離脱法(合気)から攻撃法(呼吸力)への変容が生ずることになった。ここに思想的には「馴染」つまり「合気」のイメージを残しながら、実際の技では「呼吸」という攻撃型の動きが主眼であるという現在の合気道の矛盾が構造的に生まれることになっている。それはともかく形意拳の立場からすれば、合気上げを一人で練るには劈拳を練れば良いと言える。それは内的な感覚を育てて自身の力点の移動を細かに知ることで相手の力点の移動をも知ることが可能となるからである。

道徳武芸研究 形意拳・劈拳で合気上げを練る(3)

  道徳武芸研究 形意拳・劈拳で合気上げを練る(3) 大東流の合気上げは、合気道では「呼吸(力養成)法」とされるようになる。ここでおもしろいのは劈拳が、五行の「金」に属している点である。つまり「肺」に当たるわけで、これは「呼吸」ということになる。つまり劈拳を通して見ると大東流(合気上げ)と合気道(呼吸法)とがひとつのものとして理解できるようになるのである。実際の劈拳では腕をねじりながら拳を上げる時に息を吸って(起)、掌で打ち下ろす時に吐く(落)のであるが、これを繰り返すことで呼吸を練るとされている。ちなみに「起落」は形意拳の最もベースとなる動きである。合気道でも腕をあげて相手を制して、投げる時には腕を下げる。相手を投げる時の呼吸は吐いている。つまり腕を上げて相手を崩している時に息を吸って、投げる時に吐く、これが呼吸法で大東流のような力の作用点をずらすよりも、大きく呼吸の流れに乗せて相手を制投げようとするように合気道は変化して行っている。この変化は合気上げと呼吸法の始まる位置にも見ることができる。合気上げは膝のあたりで相手の手首を強く抑え付けているが、呼吸法では胸のあたりでやや高く、抑える力そのものも強くはしない。それは腕を上げるということから、呼吸を練ることに稽古の主眼が移っているためである。

道徳武芸研究 形意拳・劈拳で合気上げを練る(2)

  道徳武芸研究 形意拳・劈拳で合気上げを練る(2) 形意拳の五行拳の最初は劈拳である。これは両腕をねじりながら拳を突き上げる。やってみれば分かるが、両手を取らせてこの動きをすると、合気上げと同様なことが可能となる。それは腕をねじりながら上げているからで、しかもねじりの度合いは合気上げより遥かに大きい。合気上げは上下のねじりだけであるが、劈拳では完全に回転をさせている。合気上げが上下の動きだけであるのは、抜刀が目的であったそもそもの成り立ちに深く関係している。刀を離すことなく、抑えてくる相手を制しなければならなかったのである。相手の力の作用点をずらすということからすれば、腕を上下だけではなく回転をさせた方が簡単なのであるが、それができない理由が歴史的にあったわけである。同じような腕の回転は呉家太極拳でも顕著に見ることができる。楊家は掌で相手の動きを導くが、呉家では拳にしてそれを行う。それは拳にした方が腕を丸く使うことができて、引く力も同時に作ることができるからである。腕の張りを使って相手を誘導することが容易であるのは拳にした方が良い。こうした手法は合気道では砂泊諴秀が用いている。

道徳武芸研究 形意拳・劈拳で合気上げを練る(1)

  道徳武芸研究 形意拳・劈拳で合気上げを練る(1) 大東流の「合気上げ」は、手の操作で抑えている相手の腕を上げて、その重心を奪うものであるが、それが可能であるのは、相手の力の利いている点をずらすことに依る。そうして、こちらへの作用を小さくさせるのである。この時に重要なことは、握っているどこに力の中心点があるのかを明確に知ることに他ならない。それが分かると、次にはその作用点をコントロールする技術を習得する。こうした段階を太極拳では「覚勁」「トウ(忄に董)勁」といしている。実際には腕をねじることで、相手の力の作用点をずらすのであるが、「合気上げ」で指先を上に向けるのには、そういった意味がある。また指の形を大東流などでは「朝顔」のようにすると教えているのも、腕の回転を円滑にするためである。また「玉」や「円」をイメージすることも同様である。要は「合気上げ」のベースは、腕を上下に回すということに尽きるわけである。こうした相手の力の作用点をずらすことは当然、力の働いている状況であれば、肩でも、頭でも、胸でも、どこでも可能なのであるが、こうした部位では作用点が腕ほどは明確ではない。つまりホールドが弱いので、それをずらすことによる効果も限定されたものとなってしまう。こうした「体の合気」は稽古としてはおもしろいが、実戦では相手の力のあり方が変化しやすい(ホールドが弱い)ので使うことは困難である。

宋常星『太上道徳経講義』(46ー3)

  宋常星『太上道徳経講義』(46ー3) 天下に道が行われていなければ、兵馬が郊外で戦いに備えて養われるようになる。 天下に道が行われていない時に人々は安らかに暮らして行くことはできない。また物も安定して流通することがない。世情は安寧を欠いて、至るところで争いが起こる。こうした時には、いざという時に備えて郊外では兵馬が育成されるようになる。千百もの馬が揃えられて、壮麗な様相が呈される。そうしたことが街の近くでなされるようになったなら、それは「行き過ぎた行為」ということになろうし、そうなるとただでは済まないことでもあろう。またこうしたことは(戦争への不安をかき立てて)民を治めるための弊害となることであろう。そうしたことを「天下に道が行われていなければ、兵馬が郊外で戦いに備えて養われるようになる」としている。もし修行者が無為を守ることがなければ、清静であることはできないであろう。もし貪欲なる思いが生じたならば、あるいは名や利を得て栄ることを求めようとするならば、心には(他人を害する)「刀」や「兵」が続出することになろう。性の中には「軍馬」が限りなく生まれることになろう。そのような考えにあって途切れることなく「是非」や「我彼」といった対立に執着して、日々止むこともない。全身全霊ことごとく「魔軍」の徒となってしまう。全身は「戦場」と化し、神(意識)は一時も落ち着いていられない。心もリラックスを得ることがなく、その心身はまったく道の行われていない天下と同じような状態となる。性命の長からんことを求めても、その手立てさえもなくなる。 〈奥義伝開〉大いなる道が行われているのが「太極」の状態である。陰陽といった対立するものが、互いに関係しあって安定を保って働いている。これが壊れるとただ対立だけが残り、争いが生まれる。かつて太極図は陰と陽とが互いに半分記されているだけであった。これは天と地、男と女といった相対するものによってこの世は構成されているとする考えを示すものである。一方、太極拳の双魚太極図は陰と陽が互いに動いて交わろうとしている。つまり天と地は「水」を介して交わることができるのであり、男と女は「情」を通じて交わることができることが見出されたわけである。太極拳では敵と自分は「神(意識)」を通して交わることができるとする。相手の争おうとする意識を感じて、それをそらせるわけで...

宋常星『太上道徳経講義』(46ー2)

  宋常星『太上道徳経講義』(46ー2) 天下に道が行われていれば、優れた馬も兵馬とならず、その糞が肥として使われるだけである。 修身の理ということをよく考えてみると、それは天下を治める道と同じであることが分かる。実際の行動は違っていても、理においては同じなのであり、それは無為自然の道をして人を養うというところにある。つまり天下を治めるにあっては、無欲自然をして民に向き合わなければならない。それはよく走る馬のようで、それを有効に使おうとするなら国境で国を護るために使われるであろう。つまり兵馬として敵を打つために使われるわけである。また伝令として使われることもあろうが、けっして優れた馬が肥料を得るためのものとして使われることはないのである。しかし、道が実践されていたならば、国は乱れることなく、民も安らかである。社会の上下に矛盾はなく、共にあるがままで居ることができている。優れた馬が肥料を得るだけの働きをするようになっているのは、まさに無欲、無為の極みの統治が行われているからに他ならない。それを「天下に道が行われていれば、優れた馬も兵馬とならず、その糞が肥として使われるだけになる」と言っている。道の修行をする人は、妄念によって行動することなく、邪な思いや偏った考えを持ってはならない。つまり中正の道を行動の指針として、和し穏やかな気で身を養い、自然で清浄、無事であるようにする。こうしたことは天下を治める道と何ら「理」における違いはないと言える。 〈奥義伝開〉老子は「兵は不祥の器」(第三十一章)としている。あらゆる不幸が生じる元であるというのである。優れた馬もそれが兵馬として使われるようになっている世は「道」が失われていると考える。これは馬だけではなく、戦時には優れた人も兵士として徴用される。才能が身を滅ぼすということもあるのである。そうであるから老子は「樸」(第十五、十九、二十八、三十二、三十七章)であることを推奨する。それは「生まれたまま」ということである。人は生まれてからいろいろなことを学ぶがそれは抑制的でなければならないし、自己の才能が他人に悪用されないように気をつけなければならない。特に国家によって悪用される場合には人々の称賛をもって悪用されるので、なかなか逃れにくいものでもある。軍事においてはなおさらである。

宋常星『太上道徳経講義』(46ー1)

  宋常星『太上道徳経講義』(46ー1) 「心」は体全体の中心であるとされている。そして「心」の形而上的な働きは「性」とすることができる。また形而下的な働きは「情」として現れるといえよう。そして「性」は「静」を、「情」は「動」を主とする。そして体にあっては、この動静があらゆるものを生み出している。善もそうであるし、悪もそうである。結果として「動」において善が働くと、天の理そのものの働きとなるので、ここに体の内外ともに天の徳が完全に備わることとなる。それは天秤が釣り合っているようなものであり、(「性」がそのまま「情」として欲望のバイアスが掛からないで表現されるので)鑑が曇りなく姿を写しているのと等しい。そこには妄念の入る余地はなく、私欲の生ずることもない。ここで中心となるのは善であって、それが働きとして現れれば、あらゆるところに善を見ることになる。もし、それが不善であったら、邪悪な思いが噴出して、妄念が湧き出し、心は欲望のままに振り回されることなのであろう。そしてあらゆる行動が欲得のみで為されることになる。治そうとする気のない人の病を治すのは難しい。それは自制する気持ちがないからである。これはまた東に流れている川の中に入って、流れのことは考えないで自分の思うままに行こうとするようなものである。こうした道理を弁えない心では、偏ることのない天の理そのままの体の働きも、汚れたところに迷い行ってしまうものである。こうした少しの思いの違いによって、このように体は害を受けたり、滅んだりするものであるが、往々にして人は心を改めようとはしない。少しの誤りが、家を傾かせ、財産を失っても、それがどうしてか気づこうともしない。つまりは、そうなのである。こうしたところからすれば「理」と「欲」との違いの判断は、それが行動として現れることのない前にあるということが分かる。これをよく知っておかなければならない。また文中では足るを知るよう戒められてもいる。知足ということが、この章の主題であり、それは無為、無欲の自然の道をして、天下を治めるということでもある。 〈奥義伝開〉ここで老子が述べている「知足」は単に現状に満足するというのではなく、最後に「常足」であるとするように「常」つまり「大いなる道」と一体となった「足(た)」るなのである。それは行為において過不足がないということである。やり過ぎる...