宋常星『太上道徳経講義』(46ー2)

 宋常星『太上道徳経講義』(46ー2)

天下に道が行われていれば、優れた馬も兵馬とならず、その糞が肥として使われるだけである。

修身の理ということをよく考えてみると、それは天下を治める道と同じであることが分かる。実際の行動は違っていても、理においては同じなのであり、それは無為自然の道をして人を養うというところにある。つまり天下を治めるにあっては、無欲自然をして民に向き合わなければならない。それはよく走る馬のようで、それを有効に使おうとするなら国境で国を護るために使われるであろう。つまり兵馬として敵を打つために使われるわけである。また伝令として使われることもあろうが、けっして優れた馬が肥料を得るためのものとして使われることはないのである。しかし、道が実践されていたならば、国は乱れることなく、民も安らかである。社会の上下に矛盾はなく、共にあるがままで居ることができている。優れた馬が肥料を得るだけの働きをするようになっているのは、まさに無欲、無為の極みの統治が行われているからに他ならない。それを「天下に道が行われていれば、優れた馬も兵馬とならず、その糞が肥として使われるだけになる」と言っている。道の修行をする人は、妄念によって行動することなく、邪な思いや偏った考えを持ってはならない。つまり中正の道を行動の指針として、和し穏やかな気で身を養い、自然で清浄、無事であるようにする。こうしたことは天下を治める道と何ら「理」における違いはないと言える。


〈奥義伝開〉老子は「兵は不祥の器」(第三十一章)としている。あらゆる不幸が生じる元であるというのである。優れた馬もそれが兵馬として使われるようになっている世は「道」が失われていると考える。これは馬だけではなく、戦時には優れた人も兵士として徴用される。才能が身を滅ぼすということもあるのである。そうであるから老子は「樸」(第十五、十九、二十八、三十二、三十七章)であることを推奨する。それは「生まれたまま」ということである。人は生まれてからいろいろなことを学ぶがそれは抑制的でなければならないし、自己の才能が他人に悪用されないように気をつけなければならない。特に国家によって悪用される場合には人々の称賛をもって悪用されるので、なかなか逃れにくいものでもある。軍事においてはなおさらである。


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