宋常星『太上道徳経講義』(46ー3)

 宋常星『太上道徳経講義』(46ー3)

天下に道が行われていなければ、兵馬が郊外で戦いに備えて養われるようになる。

天下に道が行われていない時に人々は安らかに暮らして行くことはできない。また物も安定して流通することがない。世情は安寧を欠いて、至るところで争いが起こる。こうした時には、いざという時に備えて郊外では兵馬が育成されるようになる。千百もの馬が揃えられて、壮麗な様相が呈される。そうしたことが街の近くでなされるようになったなら、それは「行き過ぎた行為」ということになろうし、そうなるとただでは済まないことでもあろう。またこうしたことは(戦争への不安をかき立てて)民を治めるための弊害となることであろう。そうしたことを「天下に道が行われていなければ、兵馬が郊外で戦いに備えて養われるようになる」としている。もし修行者が無為を守ることがなければ、清静であることはできないであろう。もし貪欲なる思いが生じたならば、あるいは名や利を得て栄ることを求めようとするならば、心には(他人を害する)「刀」や「兵」が続出することになろう。性の中には「軍馬」が限りなく生まれることになろう。そのような考えにあって途切れることなく「是非」や「我彼」といった対立に執着して、日々止むこともない。全身全霊ことごとく「魔軍」の徒となってしまう。全身は「戦場」と化し、神(意識)は一時も落ち着いていられない。心もリラックスを得ることがなく、その心身はまったく道の行われていない天下と同じような状態となる。性命の長からんことを求めても、その手立てさえもなくなる。


〈奥義伝開〉大いなる道が行われているのが「太極」の状態である。陰陽といった対立するものが、互いに関係しあって安定を保って働いている。これが壊れるとただ対立だけが残り、争いが生まれる。かつて太極図は陰と陽とが互いに半分記されているだけであった。これは天と地、男と女といった相対するものによってこの世は構成されているとする考えを示すものである。一方、太極拳の双魚太極図は陰と陽が互いに動いて交わろうとしている。つまり天と地は「水」を介して交わることができるのであり、男と女は「情」を通じて交わることができることが見出されたわけである。太極拳では敵と自分は「神(意識)」を通して交わることができるとする。相手の争おうとする意識を感じて、それをそらせるわけである。こうしたことができるレベルが太極拳の最終段階である「神明」である。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(8)

道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(6)

道徳武芸研究 八卦拳から合気道を考える〜単双換掌と表裏〜(4)