宋常星『太上道徳経講義』(46ー1)

 宋常星『太上道徳経講義』(46ー1)

「心」は体全体の中心であるとされている。そして「心」の形而上的な働きは「性」とすることができる。また形而下的な働きは「情」として現れるといえよう。そして「性」は「静」を、「情」は「動」を主とする。そして体にあっては、この動静があらゆるものを生み出している。善もそうであるし、悪もそうである。結果として「動」において善が働くと、天の理そのものの働きとなるので、ここに体の内外ともに天の徳が完全に備わることとなる。それは天秤が釣り合っているようなものであり、(「性」がそのまま「情」として欲望のバイアスが掛からないで表現されるので)鑑が曇りなく姿を写しているのと等しい。そこには妄念の入る余地はなく、私欲の生ずることもない。ここで中心となるのは善であって、それが働きとして現れれば、あらゆるところに善を見ることになる。もし、それが不善であったら、邪悪な思いが噴出して、妄念が湧き出し、心は欲望のままに振り回されることなのであろう。そしてあらゆる行動が欲得のみで為されることになる。治そうとする気のない人の病を治すのは難しい。それは自制する気持ちがないからである。これはまた東に流れている川の中に入って、流れのことは考えないで自分の思うままに行こうとするようなものである。こうした道理を弁えない心では、偏ることのない天の理そのままの体の働きも、汚れたところに迷い行ってしまうものである。こうした少しの思いの違いによって、このように体は害を受けたり、滅んだりするものであるが、往々にして人は心を改めようとはしない。少しの誤りが、家を傾かせ、財産を失っても、それがどうしてか気づこうともしない。つまりは、そうなのである。こうしたところからすれば「理」と「欲」との違いの判断は、それが行動として現れることのない前にあるということが分かる。これをよく知っておかなければならない。また文中では足るを知るよう戒められてもいる。知足ということが、この章の主題であり、それは無為、無欲の自然の道をして、天下を治めるということでもある。


〈奥義伝開〉ここで老子が述べている「知足」は単に現状に満足するというのではなく、最後に「常足」であるとするように「常」つまり「大いなる道」と一体となった「足(た)」るなのである。それは行為において過不足がないということである。やり過ぎることもなく、足りないこともない。そうした状態が理想であり、自然であると老子は教えている。ただ実際には「足りない」と思うくらいが丁度良いというのが老子の考え方のようである。武術でも強さを求め過ぎるとかえって体を壊してしまうことがある。二流の選手の監督は練習をさせるように導き、一流の選手の監督は休ませるように導くものである。練習をすることも重要であるが、適度に休むことも重要である。同じように練習をしていて大きな功を得られる人とそうでない人がいるのは、このバランスの調整にあると言える。つまり「大いなる道」のままに稽古をしていれば最も理想的な結果が導き出されるわけである。


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