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宋常星『太上道徳経講義』(39ー7)

  宋常星『太上道徳経講義』(39ー7) 侯王は「一」を得て、そうして天下を正しく(貞)治める。 「貞」は、河上公は「正」の字が用いられている。「貞」と「正」の意味は同じである。万物は「一」を得ることで生きているのであるが、侯王は民を生きさせているわけであるから、侯王にあっても「一」を得ないのは適切な統治は行い得ないわけである。侯王が「一」を得たならば天下は争いなく正しく治まることであろう。正しい心を自分のものとして、誠意をもってことに対する。つまり「一」を心身に得ているわけである。こうしたことは総て太極の「一」なる理なのである。これを天下に施せば、総ては仁の恩恵の及ぶところとなる。侯王の心が正しければ、あらゆる存在に対する心も正しくあることであろう。つまり侯王の心が「一」であったならば、当然のことに民にも「一」の心で対しているのであるから民の心もまた「一」となる。そうなれば天下は無事に治まるのであり、万民は自然に無為となり、天下が正しく安寧であることを心配することもなくなる。そうであるから「侯王は『一』を得て、そうして天下を正しく(貞)治める」と述べられているのである。 〈奥義伝開〉「侯王」とは各地に任命された王のことである。ここでは天や道によって「任命」された統治者のことをいっている。そうした人物は当然のことであるが「一」を得ている。「一」を得ているので成るべき人が侯王となっているわけである。しかし実際の統治者は覇道による争いに勝ってその地位を手に入れた者たちである。中国では伝説の時代に「侯王」たる聖なる王が居たことになっている。老子が「侯王」にこだわるのは天に北極星があるように、人の社会でも「不動の中心たる人」があるべきと考えていたからと思われる。また歴史上は中国では皇帝が北極星に例えられても来た。そうして聖なる王の登場が常に期待されていたのであるが民国建国の時についにそれが間違った考え方であることが分かり、皇帝は廃止された。世界を見てもそうした動きが近現代には多く見られた。これが歴史的な趨勢というものなのであろう。

宋常星『太上道徳経講義』(39ー6)

  宋常星『太上道徳経講義』(39ー6) 万物は「一」を得ているので存することができている。 谷の空間は「一」を得て満たされる(盈)だけではなく、万物にあっても「一」を得ればよく生きることができる。「万物」とは、いろいろな動きをするものであり、いろうろな色を持っている。生物であり無生物であり、善であり悪であり、邪であり正であり、醜くあり好くもあり、粗くもあり細かくもあり、柔であり剛でもあり、大きくもあり小さくもある。一切の形を持つ存在を総称して「万物」と謂っている。この「万物」はまた雨や露や風、雷として現れることもある。それによって寒さや暑さ、昼や夜が現れる。また人が「一」を得れば酷暑に耐えたり、霜や雪をものともしなかったり、卓越した才能を表したり、品位があったり、長生きをしたり、そして成長に従ってその姿形が変わったりもする。こうしたそれぞれの生存の理は、それぞれが「一」を得ているから働いている。「一」から生まれて「一」を成しているわけである。「一」から生まれるとは、生まれる時機があるということである。「一」と成るというのは、時機によって成長の働きが生まれるということである。つまり生きている上での考えられないような変化の機は、努力することなく自ずから生じるのであり、意図することがなくても自然に働きを持つようになるのである。これらは総て「一」を得ることでなされる。そうであるから「万物は『一』を得ているので存することができている」とあるのである。 〈奥義伝開〉あらゆる存在は「調和的統一」である「一」を得ているので安定的な運動をして適宜、変化もしている。それが崩れると、どこかに破綻が生まれることになる。また破綻が生ずることで崩れた調和はまた再び調和状態へと戻ることができる。

宋常星『太上道徳経講義』(39ー5)

  宋常星『太上道徳経講義』(39ー5) 谷は「一」を得ているので盈(み)ちている。  神が「一」を得て不可思議な働き(霊)をするだけではなく、谷の空間においてもそこに「一」が得られたならば、生命力(気)が満ちることになる。谷の空間は虚であり、そこには「一」がある。これはどこの谷という特定の谷を言っているのではない。例えば人には「人の谷」がある。物には「物の谷」がある。山には「山の谷」がある。川には「川の谷」がある。天には「天の谷」がある。地には「地の谷」がある。天地にもし「谷」が無かったならば、そこに運動の働く余地がなくなってしまい、変化も生まれない。人や物に「谷」がなくなってしまったら、性命(心と体の根本)の根の存するところがなくなる。山や川に「谷」がなければ、風(吐納の気)の吹くところがなくなってしまう。そうであるから天は「谷」があることで、その空間において働きをしている。地は「谷」があることで昇降、陰陽の働きをし得ている。人も「谷(丹田)」があることで神(心のエネルギー)や気(体のエネルギー)を変化させている。物は「谷」(という空間)があることであるべきところに存することができている。山も「谷」(という空間)があることで水を流すことができている。川も(水が流れている)「谷」があることであらゆるものを受け入れることができている。天において「谷」の働きが充分でなければ、天の働きは円滑になされることはない。地の「谷」の働きが充分でなければ、地の働きも適切には行われない。人に「谷」の働きがk充分でがなければ、神や気の変化も促されることはない。物に「谷」の働きが充分でなければ、物はあるべきところに存することはできない。山に「谷」の働きが充分でなければ、その水を適切に流すことはできず、川に「谷」の働きが充分でなければ、その流れも止まってしまう。つまり、これらの基となっているのは「谷」つまり「虚」なのである。それが満たされるというのは「一」に依る。「一」を得れば、谷神も死ぬことはない。それはそこに気が満ちているからである。例えばここで述べられている「谷」は、第六章の「谷神は死なない。これを玄牝という。玄牝の門は、これを天地の根と称す」とある、そのことなのである。そうであるから「谷は『一』を得ているので盈(み)ちている」とされている。 〈奥義伝開〉老子は「谷」のよう...

道徳武芸研究 龍形八卦掌における換掌式と「三才式」(4)

  道徳武芸研究 龍形八卦掌における換掌式と「三才式」(4) 龍形八卦掌の形意拳的な影響は単換掌でも見ることができる。孫家八卦掌などでは換掌式の時に体の横に回っている方向とは反対に腕を伸ばして転身をするのであるが、龍形では体の前に出す。これは形意拳の基本の構えと同じである。双換掌で半馬歩になるのもこうした形意拳の基本の構えを重視しているからに他ならない。こうした構えから片足をあげると、まさに形意拳の十二形拳、龍形拳に近いものとなるのであり、龍形八卦掌は原理的には龍形拳の変化とすることも可能なのである。それは形意拳において三才を統合するのが「龍身」であることに由来している。「龍身」は全身を三つのパートに分ける。、それは「天、人、地」であり、「頭、胴、足」である。つまり「龍形」八卦掌の「龍形」とは形意拳の三才を統合する原理のことであって、その意味では形意拳も「龍形」形意拳とすることができるわけである。形意拳を「龍形」と言わないのは、それが当然であるからで、八卦掌でそれを冠するのは八卦掌の術理、世界観が本来的には三才やそれを反映しての「龍形」にないからである。ちなみに八卦拳でいう「龍」はネイ勁(ネジリの動き)をいうものであり、「直」を基本とする形意拳ではそうした動きはごく希薄である(形意拳では応用、奥義として滾勁が八卦掌を取り入れることで、より深く研究された)。

道徳武芸研究 龍形八卦掌における換掌式と「三才式」(3)

  道徳武芸研究 龍形八卦掌における換掌式と「三才式」(3) 龍形八卦掌の三つの換掌式は既に触れたように、三才の世界観を反映したものである。つまり単換掌は「人」で中段の変化であり、双換掌は「地」で下段、上下換掌は「天」で上段の変化となる。双換掌は転身をして半馬歩となるが、一部に半馬歩をかなり低く仆歩に近い形で行う人も居る。それはこれが「地」に属するものであることを反映してのことである。また上下換掌は仆歩をとるが、これは下から上への勢いを出すために他ならないのであって、双換掌で使われる仆歩とは意味合いが異なっている。通常、双換掌で半馬歩が用いられるのは、上への勢いを出さないためでもある。このように龍形八卦掌は完全に八卦ではなく形意拳の三才の術理、世界観によって技を構成していることが分かる。ちなみに形意拳では三体式の動きで下丹田、中丹田、上丹田(起)、上丹田、中丹田、下丹田(落)と「起落」の動きによって周天をさせることで三才の統合を行っている。

道徳武芸研究 龍形八卦掌における換掌式と「三才式」(2)

  道徳武芸研究 龍形八卦掌における換掌式と「三才式」(2) 本来の八卦拳や八卦掌では原理的に換掌式は単換と双換の二つしかないのであるが、これが龍形八卦掌で三つになっているのは、形意拳の三才式の影響による。三才とは「天、人、地」で、古代の宇宙観を示すものである。形意拳では「頭、胴、足」を「天、人、地」としてその統合を重視する。三才の統合を行うひとつの形が三体式である。原理的にはあらゆる形意拳の動きは総て三体式ということになる。今日、多くの形意拳で「三体式」といえば劈拳かそれに似た動きをいうが、それはその動きが形意拳の根本原理を最も的確に示しているからに他ならない。厳密に言えばただ立っているだけの三才式(混元トウ)から形意拳の基本の動きである「起落翻賛」を含む三体式があり、そこから五行拳の第一である劈拳が生まれたわけである(劈拳の名称は第一を意味する「劈頭」から来たとも言われている)。この三才の世界観は形意拳の根本である。

道徳武芸研究 龍形八卦掌における換掌式と「三才式」(1)

  道徳武芸研究 龍形八卦掌における換掌式と「三才式」(1) 龍形八卦掌には換掌式が三つある。通常の八卦掌では換掌式は単換掌と双換掌の二つなのであるが、それに上下換掌が加えられている。一般的に上下換掌は指天打地と称されるもので、これは程派の八卦掌ではよく見られるが、指天打地を換掌式と見なす派は他には無いようである。本来、換掌式は八卦拳でも単換掌式と双子換掌式の二つだけで、共に入身の方法をいう。八極拳の劉雲樵は八卦掌の特色を「挿掌」にあるとしていたが、これは日本の武術で言うなら入身のことである。単換掌(式)では相手の構えを崩して、その隙に入身をする。双換掌(式)では始めのアクションで崩しが充分でなかった場合に、もう一方の手で更に崩しを仕掛けて隙を作ろうとする。因みに八卦拳では、こうした「原理」を言う場合には単換掌式のように「式」を付けて、実際の動作(掌)とは区別している。そうであるから単換掌式を用いる単換掌はいくつもの形があることになる。