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道徳武芸研究 一箇条の不思議(3)

  道徳武芸研究 一箇条の不思議(3) 形意拳の崩拳の回身式である狸猫倒上樹は「一箇条」のように相手を引き倒すというより、腕と肩を制することで相手の動きを止めて蹴りを極めることに眼目があるのは説明した通りであるが、こうした手の使い方は下の蹴りを見えなくさせる。こうした使い方は八卦拳では暗腿(見えない蹴り)とされる。この狸猫倒上樹と似たものに同じく形意拳の十二形拳の龍形拳がある。ただ龍形拳の場合は狸猫倒上樹のように前に出るのではなくて、後ろに引く形となり、この方が相手を引き倒す「一箇条」の動きに近いともいえる。こうして相手の腕を制する方法を形意拳では「捜骨」という。つまり相手の肩と腕(の骨)を適切な角度で抑えるという教えである。このように形意拳では相手を捕捉する「鷹捉」の基本として「一箇条」の動きを用いているわけである。また八卦拳では龍形八卦掌の単換掌で「一箇条」と同じ動きをする。これは右手で相手の腕を取って引き、左手で肩を抑えている形である(反対もある)。基本的な動きであれば、こうして相手の体勢が崩れたところで、歩を進めながら右肘を相手に打ち込むことになる。ちなみに双換掌では上段そして下段へと掌を打ち込む形になり、より複雑な展開を見ることができる。龍形八卦掌は形意拳の原理をベースに入れているので、こうした使い方は形意拳の「鷹捉」に近いものということができるであろう。

道徳武芸研究 一箇条の不思議(2)

  道徳武芸研究 一箇条の不思議(2) 形意拳における「一箇条」は、三体式において明確に示されている。形意拳が他の武術に比べて高度であるとされるのは、この三体式つまり中段の構えをベースとするシステムを確立し得ているからに他ならない。三体式は相手の攻撃を捕捉する技法で、右で相手を捉えて下に崩すと同時に、左の掌をその肩に置く(この反対もある)。そして、そのまま下に引けば「一箇条」と似た動きになる。形意拳の用法ではあえて大きくは崩さないで、小さく体勢を崩して、その空いたところに拳を打ち込むのが基本的な展開となる。いうならば三体式は拳を打つための準備なのである。また「一箇条」は崩拳の回身式である狸猫倒上樹にも見ることができる。「狸猫」は山猫のことで、それが樹木に上るというのであるが、「倒」が入っているのは、上るのではなく引き倒すという意味であるためである。これは太極拳の倒輦猴と同じで輦は高貴な人の乗る車のことであり、それは前に進むものであるが、後ろに進むので、「倒」が入っているわけである。それはともかく狸猫倒上樹でも、三体式と同じく相手の攻撃を右で受けて、左を肩に掛ける(反対もある)が、この時には相手の膝を踏み込むように蹴ることが秘訣となっている。

道徳武芸研究 一箇条の不思議(1)

  道徳武芸研究 一箇条の不思議(1) 合気道でも大東流でも一箇条(一教、一本捕り)は技の基本とされる。またおもしろいことに太極拳でも活歩推手(大リ)でこの抑え方が出てくるし、八卦拳や形意拳の基本の構えもこの抑え方を前提としている。こうしたかなり普遍性を持つ基本技としての「一箇条」なのであるが、それが基本とされるのは、これが中段の構えをベースとしたものであるからに他ならない。中国で「槍は諸武器の王」とされるが、それは槍が中段の構えを明確に取っているためである。中段の構えは「あらゆる変化を含む」ものとされている。またそうしたものとして「中段の構え」は練られなければならないのである。こうした中段の構えを重視する考え方は、合気道では「剣の理合い」として言われている。合気道と剣術とは実際の技において関連性を認めることはできないが「剣の理合」が中段の構えのことであることが分かれば、剣術との関連も首肯されるのではなかろうか(日本では刀を中段の構えで用いる)。

宋常星『太上道徳経講義』(33ー4)その3

  宋常星『太上道徳経講義』(33ー4)その3 「戒力」とは、悪行を断つことをいう。修行者は、はたしてよく内に心を戒めることができているであろうか。外に身(行動)を戒めることができているであろうか。ここに「戒力」を用いれば、自ずから勝つことができるのである。つまり天より戒めを守る人に戒の神などが遣わされて、その身を守るのである。あらゆる行動において、あらゆる善なる縁が結ばれ、起居坐臥にあっても、全く悪い行為がなされることがなくなる。こうした戒を守ることが久しければ、道の修行をしていない人でも、道に入ることができる。これはまさに「戒力」をして自ずから勝つということになる。昔しより今に至るまで究極の境地を得た人で、「戒」を修せずして道を得た者は居ない。今、道の修行をしている人で、初心の人は、三戒や五戒を守っていることであろう。また初心十戒や九真妙戒を守っているかもしれない。もし「戒力」がよく堅固であれば、千二百の善行を成就して、更には「持身の戒」「観身の戒」を修する。百八の戒、三百の大戒を修するわけである。こうして次第に戒を進んで行けば、道の修行は必ず進んで成就するものである。これが「戒力」をして自ずから勝つということである。諸々の天の神は善を守り、諸々の悪神も敬って守ってくれる。こうした人は、まさに「強」いということができる。 「進力」とは、けっして精進(適切な努力)を怠ることのないことをいうものである。精進をしていると、不思議な程に集中できるし、初心を貫くことも可能である。それを例えるなら自分を卑下してあえて目的とするところを高いところにあるとするようなものである。また、あえて目的とするところが遠くにあるように考えるようなものでもある。そして、しっかりと確実に歩みを進める力を持つのである。こうしたことは「六行」とされる。あるいはまた「六度」とも称される。一は布施、二は持戒、三は忍辱、四は勤慎、五は静定。六は智慧である。もし、これら「六行」をよく行ったならば、道の徳は日々に新たに開け、不変の真(真常=大道)はおのずから得られる。まさにこれが「精進力」といわれるものである。 「念力」とは、念の動きを止めることをいう。修行に縁のある人であれば(道の修行への)「念(おもい)」が生じれば、そこから悟りへの道に入ることができるものである(人は本来、善なる心を持っているの...

宋常星『太上道徳経講義』(33ー4)その2

  宋常星『太上道徳経講義』(33ー4)その2 聖人が相手に勝つ「力」には十の用い方がある。一は信力、二は捨力、三は戒力、四は進力、五は念力、六は定力、七は慧力、八は智力、九は道力、十は徳力である。 「信力」とは、信ずることで、これは心を起こした時に発動される。大道を尊び信じ、まったく疑うことのないことをいう。そうであれば道の修行は必ず円満に終えることができるであろうし、天上界で聖なる地位に就くことも可能となろう。全ての至聖、真仙、究極の悟りを得た者は、いまだかつて始めに「信」の力を起こすことなく成就を得た者は居ない。すべては「信」じることから始まったのである。そうであるから俗を超越して聖なる境地に入るには、必ず信力によって修行がなされなければならない。初めから終わりまで、行の成就を迎えるまで必ず「信力」の二字を離れることはできないのである。「信力」こそが真に修行を成就させるための「種」であり、道の修行に入るための根本はここにある。もし「信力」がなければ、修行を成就させることは難しい。ここで老子は「自ずから勝つ」としているが、それには「信力」によらなければならない。 「捨力」は得られる物をも捨てる力である。「捨力」の修行には三つある。一は大捨、二は中捨、三は小捨である。「大捨」とは心身を共に捨てることで、一切を忘れ、虚空と一体となることで、何かが得られるどのようなことも放棄されて、けっして貪ることがない。これが「大捨」である。「中捨」は修行によって布施が得られても、貪りの心を起こすことなく財貨に執着しないことで、これが「中捨」である。「小捨」は、行をして得られた布施を功徳と思うもので、他人を利することで自分が得になると考える。これが「小捨」である。ただこれらは「大捨」「中捨」「小捨」の違いがあるものの、もし道の悟りを得られるような大いなる才能(大根)があり、大いなる適性(大器)を有している人であれば、相手も自分をも共に忘れて、色(存在)と空とが一つとなっているので、こうした三つのレベルの存することはない。そうであるから修行者はこうした「力」に依らないで、自ずからにして勝つことができるのである。道の徳を日々に深めて、煩悩から日々に離脱する。つまりこれが「強」いということなのである。 〈奥義伝開〉老子は勝つことができるのは「力」があるからである、としているが、修...

宋常星『太上道徳経講義』(33ー4)その1

  宋常星『太上道徳経講義』(33ー4)その1 相手に勝つのは力があるからである。自ずから勝つのは強いからである。 [相手に勝つのは力があるからである。勝つ者は強いのである] 「勝」つということは「内」的には「力」があるからであり「外」的には「強」いからである。一般的には相手に勝つことができる「力」は、覇王の持っているような誰も及ばない程の勇敢さと思っているかもしれない。また伍子胥(ご ししょ 春秋時代の軍人)の千斛(180キロリットル)もの鼎を挙げることのできる「力」であると思うかもしれない。これらは全て血気の「力」であり、人に勝つことのできる「力」である。こうしたことを「相手に勝つのは力があるからである」と言っている。もし聖人が力比べをしようとするなら、そうした「力」があるだけでは不十分であると考える。聖人は力比べをする前に既に勝っているのである。聖人は天地と一体であり、万物と一体であるので、生死とも一体となっている。道徳とも一心である。一瞬で時を超えて、瞬時にあらゆる時のことが分かる。壊れることも、滅びることもない。そうした聖人がはたして「力」だけに頼るのであろうか。 〈奥義伝開〉ここで宋常星は「力」ということにかなりのこだわりを見せて、以下延々と「力」について述べている。そのためこの解説では、この部分を八回に分けて掲載することにする。『老子』の理解ということからすれば、やや煩雑な感じもあるが、近世の中国で道の修行をする人がどのようなことを重要と考えていたか、がよく分かるであろう。ここで老子は、戦いに勝つのは「力」があるからであるとしつつも、「力」があれば必ず勝てるというものではなく、結果として勝つのは相手より「強」いからであるとしている。当然といえば当然であろう。つまり「力=強」ではないということである。つまり「勝つ者が強い」のであって「力がある者が強い」わけでは必ずしもないということである。中国では「武術に優れた者は打たれて死ぬ。水泳に優れた者は溺れて死ぬ」と言われているように、人は往々にして「力」のあるところで「勝つ」ことができないのである。

道徳武芸研究 変容する太極拳〜無為自然〜(4)

  道徳武芸研究 変容する太極拳〜無為自然〜(4) 変容した太極拳が持つおもしろさもは、意図しないところにある。それは「無為自然」の中から生み出された、とすることもできるであろう。こうした「変容」は何も名人だけではなく誰にでも起きることなのであり、そうした「変容」を楽しむこともできるであろう。また太極拳だけを修練していても、その人の「性(本来の心のあり方)」が自然に太極拳の動きにも反映されて「変容」が生まれることになる。これが静坐などで重視される「性命双修」である。ちなみに「命」は「本来あるべき体の働き」のことで、そうした本来的なものすなわち自然なものを取り戻すことが武術や静坐のおおきな修行の眼目なのである。そうであるから「変容した太極拳」は当然、出現してしかるべきものなのである。