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道徳武芸研究 形意燕形と陳家金剛搗堆(1)

  道徳武芸研究 形意燕形と陳家金剛搗堆(1) 形意拳の十二形拳には燕形拳があるが、その動作と陳家太極拳の金剛搗堆とが、ほぼ同じであるのはひじょうに興味深い。これは相手を引き倒す技で、投げ技の一種と解することができる。地面の上に転がされた状態で攻撃をされると、その力を逃がす場所がないので、大きなダメージを与えることができる。時にニュースなどで倒れた相手を蹴って死に至らしめたと報じられているのを耳にするが、それ程に倒れた相手への攻撃は予想外におおきなダメージを与えることになるのである。また相手を掴んでの攻撃も同様である。形意拳は基本的には相手を掴んで攻撃をする。これは古い武術では一般的に見られるものであるが、現在ではほとんどこうした「技」が套路に内包されていることを知らない人が多いようである。ちなみに太極拳で「掌」の動きがほとんどであるのも相手を掴む意図が含まれていることを知っておくと良いかもしれない。

宋常星『太上道徳経講義』(31ー6)

  宋常星『太上道徳経講義』(31ー6) (戦いに)勝っても良しとすることはない。勝つことを良しとする者は人を殺すことを楽しむ者である。人を殺すことを楽しむような者は、天下を治めることはできない。 優れた人物(君子)はやむを得ない時にだけ軍事を用い、それは自然な行為なので戦えば勝つ(つまり自然な常態が回復される)ことになる。しかし気持ちの上では、それを喜ばしいものとは考えない。人を殺すという悲惨さは、必ず天地の和を乱すことになる。どうしてこうした惨劇に耐えることができようか。そうであるから戦いに勝っても喜ぶことはない」のであり、そのため「勝っても良しとすることはない」とされている。現在の軍事を見てみると、ある麺ではソフト戦略として、自国をよく治めて、他国にはスパイを用いることもある。あるいはハード戦略として残虐な行為をし、多くの人を殺してしまうことがある。こうしたことは全て「勝つことを良しとする」ものである。敵に勝つことを第一として、勝つことだけを望み、人を殺すのを楽しみとしている。こうしたことは人の命を守ろうとする行為によっている。人は危機にある他人を必ず救おうとするし、自分が刑を受けたならば必ず恨みを抱くものである。人心が帰することがなければ、どうして天下を治めることができるであろうか。そうであるから「良しとする者」つまり殺人を楽しむ者は、つまりは天下を治めることはできないのである。 〈奥義伝開〉老子が軍事を好ましくないとするのは、老子の考える「自然」が、あらゆるものの成長を阻害しないことである、と考えるからである。「無為」であり、生命の「自然」の成長のままに任せる。これにより完全なる秩序である「道」が保たれるとする。そうしたものを最も阻害するのが「殺人」であり、それが最も大規模に行われるのが、軍事なのである。「人を殺すことを楽しむような者は、天下を治めることはできない」とあるのが、そうしたことは恐怖政治による統治に見られるだけではない。同様のことは、多かれ少なかれどの国においても行われている。平時には死刑で、有事には戦争で常に人々の恐怖を煽ることを「上」にある者たちは忘れない。

宋常星『太上道徳経講義』(31ー5)

  宋常星『太上道徳経講義』(31ー5) 軍事は「不祥の器(不幸を生み出す道具)」であり、「君子の器(優れた人物を生み出す道具)」ではない。どうしても軍事を用いなければならない時には、とらわれのない心で用いられなければならない。 優れた人物が軍事を用いる。これは普通の人のよくするところではない。それは優れた人物が「右」を尊ぶことになるのであるが、実際のところはこうした人物が喜んで軍事を用いることはない。それは軍事が「不祥の器(不幸を生み出す道具)」」であるからである。そうであるから優れた人物は軍事を用いようとは思わない。どうしても用いなければならない時には「とらわれのない心で用いられなければならない」ということになる。「とらわれのない」とは安らかで静かであるということで、それは武王が紂を討った時と等しく、苦しみの中に喘いでいた民を救うためであった。適切なところで攻撃を止めて、順々と紂を諭した。まさにこれが「とらわれのない心で(軍事を)用い」たのことの例である。どうしても軍事を用いなければならない事態であると判断して、止むを得ず用いたわけで、こうした場合でなければ「とらわれのない心」で軍事を用いることはできない。こうして用いられた軍事は、まったく「不祥の器(不幸を生み出す道具)」とは異なるものなのである。 〈奥義伝開〉現実を直視する老子は自己の唱える教えとの矛盾のあることを、なんとか解消しようとして「とらわれのない心」を持ち出す。つまり無為自然で軍事を用いるならば、それは道に順じるものであると認めることができるとするわけである。これは国王であっても同様である。人の世に争いが生まれるのは、誰かが自然でない行為をした結果である。こうした場合には仕方がないので対抗的な行為として軍事が選ばれることもあるわけである。

宋常星『太上道徳経講義』(31ー4)

  宋常星『太上道徳経講義』(31ー4) 優れた人物(君子)として存している者は「左」を良しとする。兵を用いる者は「右」を良しとする。 社会的な地位は仕事により決まる。修練は自己により決まる。優れた人物として存している者は、すべからく尊大であったり、自惚れたりすることがなく、常に謙遜、卑下の気持ちを有している。そうであるから「柔」であり、それを「道」としている。「和」であり、それを「徳」としている。こうしたことは全て「左」を良しとするところにある。また、兵を用いようとする道は、優れた人物の道とは異なっている。進めば、敵をして進む道を分からなくさせ、退けば、敵をして退く道を分からなくさせる。その防備の整っていない処を攻めて、整っている処を決して攻めることはない。偽りをもって勝ち、詐術を弄することに長けている。そうであるから軍事を用いる道は、「右」を尊ぶのであり、けっして「左」を尊ぶことがないのである。 〈奥義伝開〉ここで突然、「右」と「左」が出てくるが、これは後にあるように吉事は「左」、凶事は「右」とする当時の諺によるもので、左右には特別な意味はない。「左」「右」については、いろいろな説明がなされているが、ここに老子の特別な考えがあったとは認めにくい。左を良しとするのは日本でも左大臣が右大臣よりも上であった、ということもあるし、左は心臓があるのでより重要と考えることも少なくない。ただ、ここではそうした理由を考慮する必要はないであろう。一部に老子は「右」を右腕の利き腕として、そうでない「左」をあえて上位としたとの説明も見られるが、老子は使える、使えないを問題にしているのではなく、自然の理のままに動くことを大切と教えているに過ぎない。自然の理のままに動いたならば「国王」であっても、それは道に順じていることになるのである(第二十五章)。

道徳武芸研究 「華拳繍腿」の合気とは?(8)

  道徳武芸研究 「華拳繍腿」の合気とは?(8) 気合ひとつで相手を倒すパフォーマンスで話題であった武術ではかつて「武道史は終わった」とする考え方が示されていた。つまりその武術は武術として最高のシステムで、それを越えるものは出現し得ないというのであった。それはそのままに認めることはできないが、しかし別の意味でこの言葉は正しいと考えている。つまり触れないで倒す「技」を技として取り入れた時点でそのシステムは武術として「終わっている=崩壊している」ということである。電波系は日本の「力のぶつからない」ことを理想とする武術の考え方(柔)が、「力を使わない」ことと誤解されたところに生まれたものである。それはある意味で「柔(やわら)」の歴史の原理的な終着点であったとすることもできるのかもしれない。そうであるから極点まで達した「柔」は、新たなものを生み出す起爆剤になる可能性があるかもしれない。この点は大いに期待したいところである。

道徳武芸研究 「華拳繍腿」の合気とは?(7)

  道徳武芸研究 「華拳繍腿」の合気とは?(7) ちなみに前回に説明した入身投げの「前」(相手)と「横」(自分)の力の使い方は、植芝盛平の「十字」と表現されるものである。こうした形が最も力の拮抗を避けられるものなのであり、それを実現させるためには「合気」(合気道では実質的には「呼吸力」)が充分に会得されていなければならない。それはともかく何時の時代でも、お花畑系や電波系の武術が一部に歓迎されるのは、ここでも触れたような術理をよく理解、体得しようと努力することなく安直に、どのようにしたらより早く、楽に上達することができるか、と考えるためであろう。その中に、如何にも「使えそう」なお花畑系の派手な技や、もはや苦労をして技を習得することのない電波系が歓迎されることになるわけである。勿論、上達法の可能性を模索するのは悪いことではないが、新しい上達法を受け入れるには一定の慎重さも必要であろう。

道徳武芸研究 「華拳繍腿」の合気とは?(6)

  道徳武芸研究 「華拳繍腿」の合気とは?(6) お花畑系や電波系の「合気道」が生まれるのは、「高度な技」についての認識が曖昧であることによっていることはすでに触れた。合気道では「相手と争わない」ことを前提とする。これは相手の攻撃する力と直接にぶつからない、という意味である。これをモデルとして示すならば、相手が前に進んで突いて来る(前への力)。こちらはそれを避けて踏み込んで腕を横に伸ばす(横への力)。そうすると相手は途中で前に進む勢いを遮られるので後ろに転倒する。これが入身投げの仕組みである。こちらは相手の「前」への力に直接、働きかけをするのではなく、ただ腕を伸ばして「横」への力を生じさせて、相手を転倒させしてしまう、といった間合いで技を行うところに、争わない合気道の理があるのであり、触れないで倒すようなことを言っているのではない。ただ触れないで倒す「技」があると考えた時点でその人には武術的なセンスが無いことは明らかである。