宋常星『太上道徳経講義』(31ー4)

 宋常星『太上道徳経講義』(31ー4)

優れた人物(君子)として存している者は「左」を良しとする。兵を用いる者は「右」を良しとする。

社会的な地位は仕事により決まる。修練は自己により決まる。優れた人物として存している者は、すべからく尊大であったり、自惚れたりすることがなく、常に謙遜、卑下の気持ちを有している。そうであるから「柔」であり、それを「道」としている。「和」であり、それを「徳」としている。こうしたことは全て「左」を良しとするところにある。また、兵を用いようとする道は、優れた人物の道とは異なっている。進めば、敵をして進む道を分からなくさせ、退けば、敵をして退く道を分からなくさせる。その防備の整っていない処を攻めて、整っている処を決して攻めることはない。偽りをもって勝ち、詐術を弄することに長けている。そうであるから軍事を用いる道は、「右」を尊ぶのであり、けっして「左」を尊ぶことがないのである。


〈奥義伝開〉ここで突然、「右」と「左」が出てくるが、これは後にあるように吉事は「左」、凶事は「右」とする当時の諺によるもので、左右には特別な意味はない。「左」「右」については、いろいろな説明がなされているが、ここに老子の特別な考えがあったとは認めにくい。左を良しとするのは日本でも左大臣が右大臣よりも上であった、ということもあるし、左は心臓があるのでより重要と考えることも少なくない。ただ、ここではそうした理由を考慮する必要はないであろう。一部に老子は「右」を右腕の利き腕として、そうでない「左」をあえて上位としたとの説明も見られるが、老子は使える、使えないを問題にしているのではなく、自然の理のままに動くことを大切と教えているに過ぎない。自然の理のままに動いたならば「国王」であっても、それは道に順じていることになるのである(第二十五章)。


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