宋常星『太上道徳経講義』(31ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(31ー5)

軍事は「不祥の器(不幸を生み出す道具)」であり、「君子の器(優れた人物を生み出す道具)」ではない。どうしても軍事を用いなければならない時には、とらわれのない心で用いられなければならない。

優れた人物が軍事を用いる。これは普通の人のよくするところではない。それは優れた人物が「右」を尊ぶことになるのであるが、実際のところはこうした人物が喜んで軍事を用いることはない。それは軍事が「不祥の器(不幸を生み出す道具)」」であるからである。そうであるから優れた人物は軍事を用いようとは思わない。どうしても用いなければならない時には「とらわれのない心で用いられなければならない」ということになる。「とらわれのない」とは安らかで静かであるということで、それは武王が紂を討った時と等しく、苦しみの中に喘いでいた民を救うためであった。適切なところで攻撃を止めて、順々と紂を諭した。まさにこれが「とらわれのない心で(軍事を)用い」たのことの例である。どうしても軍事を用いなければならない事態であると判断して、止むを得ず用いたわけで、こうした場合でなければ「とらわれのない心」で軍事を用いることはできない。こうして用いられた軍事は、まったく「不祥の器(不幸を生み出す道具)」とは異なるものなのである。


〈奥義伝開〉現実を直視する老子は自己の唱える教えとの矛盾のあることを、なんとか解消しようとして「とらわれのない心」を持ち出す。つまり無為自然で軍事を用いるならば、それは道に順じるものであると認めることができるとするわけである。これは国王であっても同様である。人の世に争いが生まれるのは、誰かが自然でない行為をした結果である。こうした場合には仕方がないので対抗的な行為として軍事が選ばれることもあるわけである。


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