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常星『太上道徳経講義』(25ー5)

  常星『太上道徳経講義』(25ー5) そうであるから「道」は「大」きなものなのである。「天」も「大」きいし、「地」も「大」きい。「王」もまた「大」きい。一定のところにこの四つがあるとすれば、「王」もその「一」であることになる。 「道が万物の根元であることは既に述べられている。ここでは「道」は「大」なるものとされ、また「天」も「大」きいし、「地」も「大」きく、そして「王」もまた「大」きいとされる。これはどういったことなのであろうか。「王」を詳しく言うなら「天地の聖王」ということになろう。天も地も王もすべて大道の中に存しているわけで、そこから出ることはできない。あるいは「天」は高く遠くまで続いていてこれを「小」さいということはできない。「地」は広く果てしないとしても、「天」の極みと同様に道の範疇にあって、それは道から逸脱するものではない。道の範疇にあるとは、断絶がないということである。つまり天、地、大道は断絶することなく一体なのであり、そうでるから天下は治まっているわけである。天地の極まるところは、人倫の極まるところであり、「至理」の極まるところでもある。これを人々に教えるために、聖なる王は天の道や地の道を極め、人の道をも極めるのである。つまり道と一体となっているということである。天、地、王は道においては一つであるから、王だけが偉大であるということはない。そうであるから「『天』も『大』きいし、『地』も『大』きい。『王』もまた『大』きい。一定のところにこの四つがあるとすれば、『王』がその『一』であることになる」とされているのである。 〈奥義伝開〉「王」とは大道と一体となった聖なる王のことであるが、こうした「王」は伝説の時代以降では出現したことはない。この「王」は無為をして統治をする。「道」を教えはするが何ら強制はしない。人々はその教えに自然に教化される。それは人も王も共に大道の中にあって、そうすることが最も合理的であるからである。「王」は人々に合理的な行為は如何にあるべきかを教えるのみなのである。

宋常星『太上道徳経講義』(25ー4)

  宋常星『太上道徳経講義』(25ー4) 自分はその名を知ってはいないが、仮に名付けるとすると「道」と言えよう。また強いて大道を名付ければ「大」きいということができる。「大」きければその果まで「逝」くことができる。それは「逝」って「遠」くまで行ける。「遠」くまで行けばまた「返」ることになる。 混沌とした中に物質が生じる。これは視ようとしても見ることのできるものではない。これを聴こうとしても聞くことのできるものではない。これを搏(とら)えようとしても得ることはできない。先に大道は「独立」しているとあり、またそれは不可思議なことに「変化することもない」ともされていた。つまり、それが不可思議なのはいまだ「独立」しているのを見た人がいないからである。「巡り巡って不安定な(殆)ところがなく」とは、その巡る運動が不可思議であることをいっている。つまり運動そのものをいまだ見他人はいないということである。ここで大道を「大」をして形容するとしても、そこに天下を乗せているからではない。「小」をもって形容するとしても、そこに天下を乗せられないということではない。「遠」といっても、その遠さは計り知れないものであるし、近いといっても、その近さも思いも及ばないものである。「有」るといってもその有ることを計測できないし、無いといってもこれも計測して無いのではない。内外は一貫しており、混沌から物質の生まれるプロセスを知ることはできない。上下は円滑に通じていているもののそれがどのように観応しているのかを知ることはできない。本当に神妙であり、不可思議なのである。強いてこれに名を付けようとするとしても、考えも及ばない。ただ大道と物質とは常に考えも及ばないような関係性の中にあって、永遠に留まることがない。そこでこれを「道」とあえて呼ぶことにする。「道」とはあえて付した名であるから、「道」という語を通じてその実態を知ることはできない。あるいはあえて「大」と形容するとしても、「大」ということで大道を言うことはできない。あるいはまた強いて「逝(い)」くと言っても、これが大道をよく形容しているのではない。さらには「遠」いとしても、これがよく大道を表現するものではない。さらには「返」るであっても、これは無窮、無尽であることをあえて言っているに過ぎないのであって、これも大道を適切に示してはいない。要は始まりの...

宋常星『太上道徳経講義』(25ー3)

  宋常星『太上道徳経講義』(25ー3) 静か(寂)で、広々として(寥)おり、独立して変化をすることもない。巡り巡って不安定な(殆)ところがなく、天下の母ともいうべきである。 静かで音もしていなのがが「寂」である。遠くてよく形が見えないのが「寥」である。静かで音もなくとは、そうした環境において求めるべきこと、つまり影も形もないものを得ることを言っている。遠くてよく形が見えないのは、その始まりも分からないということであり、その終わりも知ることがないということである。その始めも分からず、その終わりも知ることがないのは。あまりに広大であらゆるところにそれが及んでいるからである。音の無いところに求めるべき、形のないところに得られるべきは、平穏で(湛然)、清らかで、静かなところである。つまり、こうした状態にあって物質は、有るということもできないし、無いということもできない。有るとしてもそれを捉えることはできないし、物質としてそれを認めることもできない。あるいは無であるといっても存在していないのではない。まったくの非存在に留まるといったものではないのである。それはあまりに微妙で不可思議である。それを「静か(寂)で、広々として(寥)おり」と表現している。また大道は動かそうとしても動かすことはできない。陰陽は変換しようとしても変換することはできない。常に変わることなく動いており、独立して天地の「先」にあって、不壊、不滅でもある。また常に天地の「後」にも存してもいる。例え天地が変化をしたとしても、大道が変わることはない。そうであるから「独立して変化をすることもない」とされている。大道は陰陽そのものではないが、まったく陰陽において働らいていないところはない。有無、動静そのものではないが、まったく動静において働いていないところはない。存しないところはないし、それを有していないものもない。万物の生を助けてあらゆる物に及び、あらゆる物の形を変化させて尽きることがない。そうであるから五行はそれぞれ性質を異にしているのであり、四時(四季)にはそれぞれ違った感じがあるわけである。天地はその働きが違っているし、万物はそれぞれの形を有している。こうした不思議さは尽きることはない。そうであるから「巡り巡って不安定な(殆)ところがなく」とあるわけである。「殆」とは適切ではない、ということで、陽であ...

道徳武芸研究 易と太極拳(4)

  道徳武芸研究 易と太極拳(4) 太極拳つまり張三豊の創始した十三勢の根本は「静」にある。これを王宗岳は言いたかったのであろう。十三勢はただ十三の動き「ホウ、リ、擠、按、採、肘、レツ、靠、中定、進、退、右眄、左顧」が並列的にあるのではなく、それらは全て「静」によって生み出されている。そうであるから太極拳はゆっくりした動きで練るのであり、この点が他の武術と大きく相違するところなのである。一方で陳家砲捶は速く動くことを修練しようとする。これは王宗岳の考えた太極拳とは全く違っている。そこで陳キンは「螺旋」ということに目を付けた。そして螺旋の動きは、その中心は動きが少ないので、これを「極陰(陰陰陰 陰陰陰)」として、次第に渦が広がるにつれて運動が活発化して行くとして、それを易の次第に陽が生まれていく過程と等しいとする。そうして易は陳家砲捶の纏絲勁を表していると証明しようとしたわけである。

道徳武芸研究 易と太極拳(3)

  道徳武芸研究 易と太極拳(3) 王宗岳が張三豊の十三勢に太極の理を見出したのは十三勢の「ホウ、リ、擠、按、採、肘、レツ、靠、中定、進、退、右眄、左顧」の中で特に囲繞の変転を見出したからなのであろうか。ベースとなる四正の「ホウ、リ、擠、按」を見てみると、「ホウ」は上への崩し、「リ」は下への崩し、「擠」は前に押す、「按」は下に押す、であるから「上、下」「前、下」となり「擠、按」は対の関係にはなっていないことが分かる。動きが太極の理そのものであれば「按」は後ろに押すというものでなくてはならず、これでは武術としての動きは成り立たない。また四正の応用とされる四隅の「採、肘、レツ、靠」に至っては全く対の関係つまり太極の理を見ることはできないのである。ただ王宗岳の太極拳論を見ると、王は「動」と「静」を「陽」「陰」としてそこに太極の理があることを考えていたと思われる。そうなるとあらゆる武術は太極拳となってしまうが、おそらく王は太極拳における「静」を強調するために十三勢を太極拳と称することを提唱したものと思われるのである。

道徳武芸研究 易と太極拳(2)

  道徳武芸研究 易と太極拳(2) 陳キンは陳家砲捶の核心である「纏絲勁」を「螺旋」の動きと規定して、その動きが易を表現しているとしている。そうであるから陳家砲捶は太極拳と称することが可能であというわけである。『陳家太極拳図説』はまさにそれを証明しようとしたものであり、纏絲勁が「螺旋」の動きであるとする考え方もここから来ている。しかし、ここで問題となるのは易は螺旋を表現してはいないということである。本来、易は単に陰陽をいうのみでその変転はあっても、円環する動きを示すものではない。しかし、後には円をして八卦が示されるようになり(『易経』の頃には見られない)、陰陽の消長を天における日月星辰の動きである周天と等しいものと見るようになって行くのである。しかし、この段階でも周天はあくまで円周の軌跡における変化であって、螺旋の動きではない。それを螺旋にまで繋いで行くところに陳キンの苦心があった。ただ太極拳では楊家を見ても分かるように「螺旋」の動きをベースとしてはいない。ただ円の動きであるに過ぎない。実は陳キンが太極拳の核心として見出そうとしていた「螺旋」は、王宗岳が十三勢を太極拳として認めた時の陰陽観とは別の視点に立っていたのである。

道徳武芸研究 易と太極拳(1)

  道徳武芸研究 易と太極拳(1) 陳キンの『陳氏太極拳図説』は、その初めのかなりの部分を使って「易」の解説をしている。これを奇異に思う人も多いが、人々の関心は主としてそれに続く技術解説の方にあって、徳には「易」の解説が注目されることはないようである。しかし、陳キンがここで述べたかったのは実に「易」の部分にこそあったのである。それは「陳家砲捶」を「陳家太極拳」にするための理論構築をここで行っておきたかったからである。太極拳は本来は張三豊かにより創始された「十三勢」が元なのであるが、後に王宗岳が出てこれを太極拳と称するようになる。それはまた蒋発によって陳家溝に伝えられ、その教えが陳長興を通して楊露禅に学ばれ、北京で太極拳として知られるようになるのである。そうした経緯により陳キンは「太極拳」の源流としての「陳家砲捶」を「太極拳」として位置付けることができると考えたのであろう。そしてその鍵となったのは「螺旋」の動きつまり「纏絲勁」であった。