宋常星『太上道徳経講義』(25ー3)

 宋常星『太上道徳経講義』(25ー3)

静か(寂)で、広々として(寥)おり、独立して変化をすることもない。巡り巡って不安定な(殆)ところがなく、天下の母ともいうべきである。

静かで音もしていなのがが「寂」である。遠くてよく形が見えないのが「寥」である。静かで音もなくとは、そうした環境において求めるべきこと、つまり影も形もないものを得ることを言っている。遠くてよく形が見えないのは、その始まりも分からないということであり、その終わりも知ることがないということである。その始めも分からず、その終わりも知ることがないのは。あまりに広大であらゆるところにそれが及んでいるからである。音の無いところに求めるべき、形のないところに得られるべきは、平穏で(湛然)、清らかで、静かなところである。つまり、こうした状態にあって物質は、有るということもできないし、無いということもできない。有るとしてもそれを捉えることはできないし、物質としてそれを認めることもできない。あるいは無であるといっても存在していないのではない。まったくの非存在に留まるといったものではないのである。それはあまりに微妙で不可思議である。それを「静か(寂)で、広々として(寥)おり」と表現している。また大道は動かそうとしても動かすことはできない。陰陽は変換しようとしても変換することはできない。常に変わることなく動いており、独立して天地の「先」にあって、不壊、不滅でもある。また常に天地の「後」にも存してもいる。例え天地が変化をしたとしても、大道が変わることはない。そうであるから「独立して変化をすることもない」とされている。大道は陰陽そのものではないが、まったく陰陽において働らいていないところはない。有無、動静そのものではないが、まったく動静において働いていないところはない。存しないところはないし、それを有していないものもない。万物の生を助けてあらゆる物に及び、あらゆる物の形を変化させて尽きることがない。そうであるから五行はそれぞれ性質を異にしているのであり、四時(四季)にはそれぞれ違った感じがあるわけである。天地はその働きが違っているし、万物はそれぞれの形を有している。こうした不思議さは尽きることはない。そうであるから「巡り巡って不安定な(殆)ところがなく」とあるわけである。「殆」とは適切ではない、ということで、陽であるべきは全くの陽で、陰であるべきは全くの陰であって、それらが適切に交わり、その行き来は自然であって、まったく殆(あや)ういところがないのである。天地の間の有無や虚実、青黄や碧緑、動物や植物など一切の万物はこれによって生まれていないものはない。これによって存在し得ていないものはないのである。もし万物がこの不可思議な働きを得ることがなかったならば、生生の働きの尽きることのないことはあり得ないし、その変化もきわめて限定されたものとなってしまうことであろう。つまり「造化」とは「大道」のことなのである。そのため「天下の母ともいうべきである」とも言われている。つまり、ここで述べている「万物の母」とは、つまり「大道」のことなのである。


〈奥義伝開〉「理」は「万物の母」であり「大道」であるとされる。この「理」は天や地には存してはいるが、人が見出さなければ知り、それを我々の生活に応用することはできない。人は動物とは違って思考をして、生活を変化させ得る存在である。これが「文明」とされるもので、人は「文明」を完全に拒否しては生きることができない。ただ「文明」の中には間違った使われ方をする「利器」もある。簡単な例では包丁は料理に使うもので人を傷つけるために使うものではない。このように「文明」により得られた「利器」は抑制的に使わなければ大変な間違いを引き起こすことになる。


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