宋常星『太上道徳経講義』(25ー4)

 宋常星『太上道徳経講義』(25ー4)

自分はその名を知ってはいないが、仮に名付けるとすると「道」と言えよう。また強いて大道を名付ければ「大」きいということができる。「大」きければその果まで「逝」くことができる。それは「逝」って「遠」くまで行ける。「遠」くまで行けばまた「返」ることになる。

混沌とした中に物質が生じる。これは視ようとしても見ることのできるものではない。これを聴こうとしても聞くことのできるものではない。これを搏(とら)えようとしても得ることはできない。先に大道は「独立」しているとあり、またそれは不可思議なことに「変化することもない」ともされていた。つまり、それが不可思議なのはいまだ「独立」しているのを見た人がいないからである。「巡り巡って不安定な(殆)ところがなく」とは、その巡る運動が不可思議であることをいっている。つまり運動そのものをいまだ見他人はいないということである。ここで大道を「大」をして形容するとしても、そこに天下を乗せているからではない。「小」をもって形容するとしても、そこに天下を乗せられないということではない。「遠」といっても、その遠さは計り知れないものであるし、近いといっても、その近さも思いも及ばないものである。「有」るといってもその有ることを計測できないし、無いといってもこれも計測して無いのではない。内外は一貫しており、混沌から物質の生まれるプロセスを知ることはできない。上下は円滑に通じていているもののそれがどのように観応しているのかを知ることはできない。本当に神妙であり、不可思議なのである。強いてこれに名を付けようとするとしても、考えも及ばない。ただ大道と物質とは常に考えも及ばないような関係性の中にあって、永遠に留まることがない。そこでこれを「道」とあえて呼ぶことにする。「道」とはあえて付した名であるから、「道」という語を通じてその実態を知ることはできない。あるいはあえて「大」と形容するとしても、「大」ということで大道を言うことはできない。あるいはまた強いて「逝(い)」くと言っても、これが大道をよく形容しているのではない。さらには「遠」いとしても、これがよく大道を表現するものではない。さらには「返」るであっても、これは無窮、無尽であることをあえて言っているに過ぎないのであって、これも大道を適切に示してはいない。要は始まりの根元に「返」ることが重要なのである。考えも及ばないような「道」は、自得されるべきであり、そうなれば物質の「理」も自然と分かるであろう。個々の物の名を知らなくても、道からすれば本来あらゆる物は名を持っていなかったのである。もしあえて大道と「大」と名付けたならば、「大」という観点で道を考えたならば、それは広大無辺ということになる。この宇宙のあらゆる「世界」を取り込んで、その全ての所に及んでいる、ということになる。しかし「大」といっても、その実態を捉え切ることはできない。ただ「大」と強いて言っているに過ぎない、ということである。また強いて「逝」くとして「逝」くというところから大道を考えたならば、それはひじょうに広大であり、留まるところがないということになろう。それぞれが関係をして連鎖をしている。これが「逝」くの実態である。そかし強いて大道を「逝」くと形容しようとしても、それで全てを表すことはできない。また「遠」いとあえて言うとすれば、「遠」く極まりがなく、その終わるところを知らないということになろうが、「遠」いをしても大道を言い表していることにはならない。「大」きければ、その果まで「逝」くことになる。それは「逝」って「遠」くまで及び。そして「遠」いところからまた「返」るのは、本当の始まりの根元である。何かを統一するには共通する根本がなければならないし、合一させるには共通する根元が必要である。道はそれを形容する名を付することはできないとしても、道そのものを得ることはできる。人はまさに道と共に存しているのであり、完全に道と融合している。つまり人と道とは一体であるのであって、それは内でも外でも一貫して変わることはない。混沌とした中に造化は働いていて、それは個々人においても同様なのである。


〈奥義伝開〉ここでは「大道(道)」を「大」つまり普遍的であり、「逝」つまり運動体であることが示される。「大」や「逝」は空間的な普遍性と運動をいっているが、「遠」や「返」は「大道」が時間的な普遍性や運動体であることを示している。つまり「大道」は空間的にも時間的に普遍的な存在であり、常に運動している、変化をしているということである。またその運動、変化は循環するものであることを老子はイメージしていたようである。それは日月や四季にも見ることができる。つまり永遠に変わらないものは無いということである。


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