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道徳武芸研究 中国武術の「秘訣」の世界(6)

  道徳武芸研究 中国武術の「秘訣」の世界(6) かつて鄭曼青は師の楊澄甫から「鬆」の大切さを教えられたが、なかなかその真義を理解できないでいた。ある時は「力を抜きすぎている」と言われ、ある時には「硬い」と叱られた。有名な話では夢で腕が折れる体験をして「鬆」を悟ったとされている。これも稽古の場を離れ、日常の意識がなくなることで、新たな視野を獲得できて「鬆」字訣の真義を会得できたわけである。これは問題を「寝かしていた」に等しい状態であったことは言うまでもなかろう。そして後に左莱蓬から「力は骨に発し、勁は筋による」の秘訣を得て、これで太極拳の奥義を悟ったとされる。この秘訣は実は「鬆」の具体的な使い方を示いている。「骨」とは体の使い方のことで、合理的な突き方、受け方など基本的な体の使い方はどの武術でも変わることはない。一方「筋」と皮膚感覚のことで、これにより「力」を微細に調整して効果的に用いることができる。つまり太極拳において武術的な力、つまり「勁」を使おうとするのであれば皮膚感覚が開いていなければならないのである。たとえば抑え技でも、いくら剛力をして抑えても肝心なポイントがずれていると簡単に外されてしまう。これは「骨」だけによるからで、そこに「筋」の働きを加えて抑えるポイントを確実にすれば正しく技を極めることが可能となるわけである。

道徳武芸研究 中国武術の「秘訣」の世界(5)

  道徳武芸研究 中国武術の「秘訣」の世界(5) 日本の武術のように、ただ「口伝あり」とするだけではなく、あえて「口伝」を言語化する努力を中国武術では行っているわけであるが、これを学習効果ということから言えば、字訣を得てから何年か後に気づくことのできることができる利点も認められる。長く練習をして心身の状態が整って来た時に初めて字訣の本当の意味が理解できるようになることが往々にしてあるわけである。これは一般的にも難しい問題を解決する時に「置いておく」「寝かしておく」ことの重要性が説かれることでも分かろう。解決の難しい問題はそれだけを集中して考えても、なかなか良い解決策は得られない。一旦、それを離れて視野を大きく取ることで関係ないと思っていたようなところに意外な解決法が見出されることもある。このように武術の修行でも心身の状態が変化することで新たな視点が獲得され、字訣の示すことが理解されることもあるわけである。

宋常星『太上道徳経講義』(21ー2)

  宋常星『太上道徳経講義』(21ー2) 深遠なる徳(孔徳)の容(かたち)は、ただ道に依っている。 「深遠なる徳(孔徳)」とは一般的にいわれる「有為の徳」のことではない。あらゆる物の「容(かたち)」と「大いなる徳」は同じである。それは全てを受け入れている「太虚」と等しいものであり、「容」と「大いなる徳」の間に区別を求めることはできない。そこにはあらゆるものが含まれている。また反対に「大いなる徳」と「容」とが同であるとも言える。「ただ」とあるのは「ひとつ」ということで、「依っている」とは従うということである。「徳」はそれが他の物と別に存しているのではない。「徳」は必ず「道」によって存している。「道」による「徳」であるために(有為の徳とは異なり)「深遠なる徳」と称されているわけである。「大いなる徳」は天地の「徳」であり、聖人もこれを有している。この聖人の「徳」はまた天地の「徳」とも等しい。この世に存する物で「道」に依拠しないものはない。また聖人の「徳」も「道」によらないものはない。天地は万物を受け入れることができる。聖人もまた万人を受け入れることができる。つまり聖人はあらゆる民の「徳」を受け入れるのであり、天地はあらゆる物の「徳」をも受け入れるということである。すべては「一」であり、それが「徳」なのである。人は天地の大なるを知っているが、「大いなる徳」の大いなることを知らない。「大いなる徳」にはきまった形はない。天地にはそれぞれのものに形があり、それを通して天地のあることが分かるのであるが、形のないものを見ることはできない。もし色(物質)と空とが同じであることを悟ることができたならば、有無も本来的に「一」つなのであり、大地、大河も空の中から生まれたひとつの形なのである。自然は真に空なのであり、その働きは「深遠なる徳」と同じでもある。つまり天地はごく小さな空間にも収まるもので、微小な空間の中に崑崙山でも、世界の海でもそこに収めることができる。形にはきまった形というものはなく、どんな小さなところであっても、どんな大きなものをも入れることができる。大は小と等しいという秘密の教えは、天地だけではなく、聖人でも普通の人にも当てはまる。もし、個人の欲望にとらわれたならば、その徳は大きなものではなくなる。そうであるからそこに含まれることも限定したものとなる。「深遠なる徳」の奥...

宋常星『太上道徳経講義』(21ー1)

  宋常星『太上道徳経講義』(21ー1) 「道」とは「理」であるとされる。「理」のあるところには「気」がある。「理」と「気」があって造化が生じる。そして造化によって万物が生み出される。また造化が生み出すものには「動静の機」がある。「陰陽の妙」がある。陰陽の二気が交わる時、万物は一定の変化をする。「動」においても、どのようにでも動くわけではない。時機が熟して初めて動くことになる。「生」においても、どのようにでも生じるわけではない。時機が熟して生じることになる。ものが「生」まれる時、まさに天地の徳がひとつとなり、日月はその働きをひとつにし、時間も秩序だって動き、鬼神は吉凶を適切にもたらす。こうした造化の生じるその時があるので、万物も存している。太極の働きは完全であり、すべてがそれによっている。これは生死の重要な鍵であり、人が本来有している徳で本来、人が有しているものであり、造化の根幹でもある。こうしたことの奥深い意味としては、有無に関係してはいない。一定の形に留まるものではない、天地の大本であり、万物の大元で、聖人はすべてこの理を体現している、ということになる。そうであるから聖なる人とされるわけである。神仙もすべてこの理を体現している。そうであるから仙なる人とされるわけである。ここでは「衆甫」の語を見ることができるが、まさに「衆甫」とはこうした意味なのである。この文を読む優れた人は、こうした造物の機微をよく知ることができているであろうか。はたしてよく造物の重要な鍵であることが理解されているであろうか。天地の「衆甫」は、けっして個々人の「衆甫」と違っているものではない。特に思うのは道は天地を包んでいるということである。しかし、それがどこに働いているのか細かに見てみても、道を見出すことはできない。深遠なる徳(孔徳)の「徳」も、それは同様である。また「淵」であっても、その奥底を捉えることはできない。それをどこにも見出すことはできない。無欲、無為で、万物にこだわることはなく、道と完全に一致している。つまりこうしたことからすれば「大道の全神(注 全神は大道と一体となった意識のことでこれは「性」といわれることがある)」こそが、深遠なる徳(孔徳)ということになる。深遠なる徳(孔徳)の妙用とはすなわち大道のことでもある。こうしたことを体得することが、ここで説かれていることになる...

宋常星『太上道徳経講義』(20ー12)

  宋常星『太上道徳経講義』(20ー12) 自分一人は他人と異なり、「母を食べる」のを大切にしている。 「異なり」とは同じでは無いということである。道は万物の母である。そうであるからここでは「母」とある。道は道であり、徳は徳、失うは失うであって、誰と誰で違っているということは無い。そうであるなら「自分一人は他人と異なり」とはどういうことであろうか。人は道によって生まれている。物も道によって成り立っている。つまり道も人も同じなのである。ただ人が自分を道と同じとは思わないことがあるに過ぎない。「自分一人は他人と異なり」とは「他人」が道と同じではないと思っているからである。「他人」が道と同じと思っていないのは、「母の気」を食べていないからである。「他人」がよく道を体すれば、君臣でも、父子であっても、またどのような物でも、ことごとく道でないものはないことが分かる。つまりこれが「母の気」を食るということであり、これは嬰児が母乳を飲むのと同じである。「母乳=母の気」を食ることができれば、性命は全ったきものとなる。もし得ることができなければ、性命を保つことは困難となる。これが「食母の道」である。どのような人の性命であっても「自分」と違うものではなく、万物と言えども違うことは無い。「自分」の貴ぶのは、「他人」もまた貴ぶものである。「自分」が得ているものは、「他人」も得ている。天地、人、物、これらは混然一体であり一なる母の子なのである。善悪も同じ心より発している。「分かりました」も「嫌だ」も同じで、「何でも分かっている(昭昭)」ことも、それが使えないのも変わらない。「細かなことまでよく吟味をしている(察察)」のも、それが用いることがないのも変わりはしない。異なるものでも、道においては同じで無いものは無い。この章では深く「食母」を重視している。「食母」の意味が分かれば、どのような環境にあっても、楽しく居られないということは無い。行おうとして行い得ないことも無い。どのような人であっても、最も適切な状況に居て、何ものにもとらわれることが無い。そして「食母」を得たならば、またそこから離れて行くのである。 〈奥義伝開〉ここで「食母」という奇異な表現が突然出てくるが、こうした意味の明らかでない言い方を老子が出して来る時は、古くからの格言や信仰によることが多く、その真義を明らかにしようとす...

道徳武芸研究 中国武術の「秘訣」の世界(4)

  道徳武芸研究 中国武術の「秘訣」の世界(4) 太極拳で最も重視される秘訣に「ポン(手偏に朋)勁」がある。また太極拳の攻防の基本である四正の「ポン、リ、擠、按」でも「ポン」を見ることができる。注意しなければならないのは「ポン勁」の「ポン」と「ポン、リ、擠、按」の「ポン」は同じではないという点である。「ポン勁」は太極拳全体の力の使い方をいうもので、「ポン、リ、擠、按」の「ポン」は「斜め上への崩し」という限定した動きを意味する。もちろんこの「ポン」においても「ポン勁」が用いられている。当然のことであるが斜め下に崩す「リ」でも、前に押す「擠」でも、下に落とす「按」であっても等しく「ポン勁」は用いられる。「ポン勁」は「鬆」に由来する。「鬆」は単にリラックスや力を抜くことではない。瞬間的に力を抜くことでまた瞬時に力を集中させる秘訣である。こうした「鬆」によって相手の攻撃を柔らかに受け(化)ることで、「ポン、リ、擠、按」へと導く(走)ことが可能となる。もし正しい字訣を得たならばおおまかな理解ではなく、形の動きと攻防の原則にあったものとして深く考察する必要がある。また字訣は非常に実用的なものであることにも留意しておくべきであろう。もし字訣に有効性、実用性を感じなかったならば、「何か理解に足りないところがある」と思った方が良い。

道徳武芸研究 中国武術の「秘訣」の世界(3)

  道徳武芸研究 中国武術の「秘訣」の世界(3) 一字や四字で、深い教えを述べようとするのが中国武術の伝授の方法であった。しかし日本の武術の伝書では「口伝有り」とするのみで、その「口伝」がどのようなものであるのかは記していない。一方、中国武術では「化」であるとか「走」などとあるので、一定程度のイメージを持つことが可能である。しかし、実際のところは師からの口伝がなければ深い意味を知ることはできない。結局のところ「口伝」がなければ本当のことは分からないのであるから、ある意味ではわざわざ苦労して字訣を選んで記す必要も無い。そう考えたのが日本の武術家たちであった。これに対してもし弟子が充分には理解できなくても、時を越えて、人を越えて貴重な教えを、真に理解することのできる人が居るかもしれない、との可能性を信じたのが中国の武術家たちであった。これは戦争の多かった中国でおおくの場合に伝えるべき弟子の居ないこともあったからである。事実、通臂拳の張志通は台湾に来て弟子が少なくその伝承を諦めている。聞くところでは張が大陸で学んだ頃には弟子となって学んだ人が数百人も居て、その中で数人のみが最後まで残って教えを受け継いだという。これを1%とすれば、台湾で五十人、六十人の弟子しか得られないとすれば、その1%は一人に満たないものとなってしまう。そこで張は秘訣を本に記して残したのであった。はたして後に通臂拳の秘訣をよく解読し得る人物は現れるであろうか。