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道徳武芸研究 形意拳の五行説(1)

  道徳武芸研究 形意拳の五行説(1) 形意拳の母拳となるのが五行拳である。五行は五行説によるもので、5つの要素(木、火、土、金、水)がぞれぞれが関係をして生み出したり(相生)、破壊してしまう(相克)とする考え方である。世界の成り立ちをこのように捉えることで、この世界の実相を知ろうとしたのであり、また次に何が起こるかをも予測できるのではないかと考えた。そうであるから五行説はあらゆるものに当てはめられるようになり、それは形意拳のように身体ばかりではなく、味や季節、色などにも五行をして配されるようになった。ただこうした傾向は夏は「火」であり、苦味も「火」であるから夏には苦いものを食べると良いなどという迷信を生むことにもなった。五行説はあくまで季節なら季節でそれぞれの位相関係を示すものに過ぎず、それを越えて何かをいうことは適当ではない。形意拳の五行説は身体においてそれを考えているのであって、それはつまり劈拳は「金」で「肺」と関係し、讃拳は「水」で「腎」、崩拳は「木」で「肝」、砲拳は「火」で「心」、横拳は「土」で「脾」とされる。もちろんこれは劈拳を練れば肺が整うというものではない。形意拳では「拳訣」と関係して五行拳に五行を配しているのである。

宋常星『太上道徳経講義」(6ー3)

 宋 常星『太上道徳経講義」(6ー3) 綿綿、存するがごとければ、これを用いても勤(つか)れず。 最後にこの章のまとめが記される。「谷神」であるとか、「玄牝」であるとか、「天地の根」であるとかの働きは、無為にして為されるのであり、あえて陰陽が円満に交わる機を探るようなことがなくても、自然にして熟している。それは予測することもできない「玄蘊の密義」なのである。それは見ることができないので無いようであるが、実は存している。そうであるから「存するがごとければ」とある。つまり存してはいるが、何時でもそれが実感されるわけではない。そのために「綿綿として存するがごとければ」とあるのである。これは生じさせようとすることがなくも生じているのであり、その生じていないところはない、生の至(いたり)なのである。(成長変化は)化することなくして化しているのであり、あらゆるものにおいて化していないものはない。これは化の極(きわみ)である。あらゆるものが生まれ生まれて、化し化しているものの天地はそれを知ることなく、万物にあっても万物はそれを知ることがない。これを使おうとしても意図的に使うことはできず、これを用いようとしても用いることはできない。これは天地の根の立つところ、玄牝の出入りするところの門であって、谷神も死ぬことのないところでもある。もしこうした(生成変化の)意味を知ることができれば、天地も人も物も、すべて一つの理で動いていることが分かるであろう。またこの身の谷神がこれまでまったく天地の谷神と違って働くことのなかったことも知ることであろう。我が身の玄牝も、いまだかつて天地の玄牝と違って出入りすることはなかった。真の呼、真の吸は、綿綿として存するがごとくで、真の陰、真の陽はこれを用いても勤(つか)れることはない。陰陽の実理は、自ずから悠然としており、それを深く得ることは可能なのである。 〈奥義伝開〉「谷神」は虚であり、そこから「玄牝」である陰が生まれ、陽が生じる。ここから「天地」すなわち陰陽の働きによって、この世に万物が生み出される。万物の「根」はここにある。これと同じことが人体においても生じている。ために人がいろいろなものを生み出そうとするのであれば、それは「虚」によらなければならない。ただそれをどのように実現するか、が問題であったが、これは太極拳のような動きをすることで「綿綿...

宋常星『太上道徳経講義」(6ー2)

  宋常星『太上道徳経講義」(6ー2) 谷神は死せず。 「谷」という字は、山の空虚なところ「穴」のようなところをいう。そうした中で隔絶した聖地のようなところが「谷神」とされる。「死なず」とあるのは、どういうことであろうか。およそ虚の中は何らのシンボル(象)も存してはいない。そうであるから谷神の「神」はいわゆる「神」そのものではない。これはつまりは「不死の元神」なのである。そうであるから「谷神は死せず」とされている。天地の万物は、それぞれ「谷神の妙」を有しており生成変化をしているが、すべては無の中から生まれている。つまりこれが「谷神は死せず」の秘密の意味なのである。天地にもし「谷神」が存していなければ、美しい景色も美しさの光を発することなく、また一日は順調に巡ることもない。人の体にもし「谷神」がなければ「性」は長く存することはできないし、「命」も安定して働けはしない。そうであるから天地がよく長く久しく存していられるのを「谷神は死せず」といっている。人がよく長生き(長生久視)できることも「谷神が死せず」ということのためである。「死せず」とは虚霊不昧ということで、これ視ようとしても見ることはできず、ただその働きを感得することができるに過ぎない。いろいろな物を生み出し、万物を造化する。すべては「死なず」という働きによっている。そうであるから「谷神は死なず」とあるのである。 〈奥義伝開〉生成の働きの根源を「谷神」としている。それは生成の働きの根源が「虚」であるからである。これを「性」という。「性」は人にも、天地にもある。人の「性」は亡くなるとそれで終わりであるが、天地の「性」は永遠である。そうであるから人の「性」もこうした永遠につらなっているから「死せず」とする。虚の「性」は、実際には実の「命」として成長として現れる。 これを玄牝と謂う。 先に「谷神は死せず」とあったが、これによって老子は「虚中の妙」を知らしめようとした。また「谷神」で「玄牝」ということをいおうとしていた。「玄」とはつまりは「無極」ということであり、太玄は先天の気を生み出すもとであるが、それを知ろうとしてもなんらの兆もなく、思考や記憶の及ぶところではない。「牝」とはつまり「太極」であり、「万物の母」でもある。これよりあらゆるものが生まれ、それ以外に生成は存しない。天地にあっては陰陽の昇降であり、人にあ...

宋常星『太上道徳経講義」(6ー1)

  宋常星『太上道徳経講義」(6ー1) 空であって物が無く、虚であって神が有る、無象であるが実象でもあり、神ではなく、神が存在しているのでもない。それが「谷神」と謂われていると教えられた。ただ「谷神」は虚霊ではあるがその存在は明らかであるので「谷神は死せず」とされている。これが玄牝においては陰陽が寂滅している、つまりは「天地の根」となる。それは門でもあって、ここに「出入の妙理」も存している。これが「玄牝の門」とされる。この門の妙は、それを悟ったならばあらゆる法がすべてここから出ていることが分かるのであり、これに迷ってしまうとあらゆるものが分からなくなってしまう。修道の人が、よく虚静の境地に安んじることができれば、まさに「始め無き始め」と出会うことになろう。また神ならざるの神の存在に出会って「天地の根」は(ただ働きとしてあるだけで、何か)天地の根といったものが存在しているのではないことを知ることができるではなかろうか。これは昔の聖人であっても、 その働きを体験して、それを悟る以外にはなかった。天の彼方の神仙であっても、それを得るには、働きを知る他になかった。天下の道を学ぼうとする者の悟るところは、それをそれとして悟る以外にはない。こうして修行をするにしても、(テクニックを用いる)有為の修行でも、(ただ坐るだけの)無為の修行であっても、すべては働きを知るところから入ることになる。こうして修行をすれば、聖人であっても、凡人であっても変わりなく、有為でも、無為でも、「無名の道」に入ることができるのである。つまり聖人でも、凡人でも等しく、「玄牝の門」に入ることができるわけである。そうであるから老子は「谷神は死せず」という奥義を述べておられる。「玄牝の門」とされているのは、聖人でも、凡人でもそれを悟ることができるし、道と徳とを実践するそのすべての真伝がここにある。 この章では老子は「天地の根」のあることを指摘され、これがつまりは「虚中の妙」であるとされる。道を学ぶ者は「虚中」つまり「天地の根」に自分が立っていることを知らなければならない。 〈奥義伝開〉「谷神」でも「天地の根」「玄牝の門」でも、これらはすべれ「働き」をいうもので、谷神という神が居るわけでも、天地の根という根があるわけでみ、玄牝の門という門がわるわけでもない。これらは等しく生成の根源をいうもので、生命力の働...

道徳武芸研究 八卦掌と暗器(8)

  道徳武芸研究 八卦掌と暗器(8) 私見によれば塚原卜伝の「一の太刀」が、新陰流の「浮舟」と同様の技法ではなかったかと思っている。「一の太刀」は卜伝が鹿島神宮に参籠して授かったものとされていて、卜伝は鹿島新当流を伝えてはいるが、その中には「一の太刀」はない。そうしてみると「一の太刀」は攻防の技法ではなく、太刀を投げるというひとつの口伝のようなものではなかったかと思われるのである。間合いをはかれば、どの形においても「一の太刀」を使うことは可能であり、ある意味で必勝の口伝とすることができよう。こうした遠い間合いの両手で使う方法から、近い間合いの棟に手を当てて使う方法、そしてごく近い間合いで刀を投げるといった方法への変化は武器の「暗器」化と捉えることができるのかもしれない。つまり「暗器」化とは必勝へのあくなき追究の過程で生まれたものと考えられるのである。ちなみに「一」という形が刀を投げた形に似ていることも、「浮舟」が「一の太刀」説の幻想を補強するものと考えている。

道徳武芸研究 八卦掌と暗器(7)

  道徳武芸研究 八卦掌と暗器(7) 武器を投げるという行為は現在はあまり行われないが、中国武術の槍や棍の伝書を見ると短刀を投げるという教えが随所に見られる。最初に短刀を投げて怯んだところを攻撃したり、相手が槍や棍を受けて膠着状態になった時にこうした古小型の武器を投げて使うと教えている。これからは宮本武蔵と同様な「持っている武器はあますところなく使いたい」という考えを見ることができる。また新陰流の燕飛(えんぴ)と称する一連の形の中に「浮舟」という技があって、これは太刀を相手に向かって投げている。その前提となるのが刀の棟に手を添える操法である。通常、日本刀は両手で柄を持つのであるが、片手で柄を持って、もう一方の手で棟を抑えて使う方法もあり、これは大体が江戸時代以前の剣術で多く用いられていたようである。こうした操法は短い間合いで刀を使うためのもので、甲冑を着た相手の甲冑の隙間を正確に狙って斬るための方法とされている。またこの間合いは短刀などと同じ間合いといえる。この操法の時に刀を水平に構えて投げるのが「浮舟」である。形ではいきなり刀を投げつけて来るのをこちらは切り落とすという展開になる。他に新陰流では足を斬るのに対処する特別の形があったりして面白い。新陰流では他流派の珍しい技の対策を多くしてくれたおかげて、当時の思いもよらない技法を知ることができる。

道徳武芸研究 八卦掌と暗器(6)

  道徳武芸研究 八卦掌と暗器(6) 「暗器」には相手を引き倒す他に「手裏剣」としての用法も重視されている。手裏剣は数メートルが射程範囲であるが、「暗器」の場合にはごく近い距離で投げて一定のダメージを与えることを目的とする。特に点穴針などは手裏剣そのものということができるであろう。点穴針は腰帯などに忍ばせておいて入身で相手の死角に入ったら下から上方向へ円を描くようにして相手に投げつける。さらに近くの密着したような状態であればそのまま刺せば良いし、反対の尖っていない方で打つことも可能である。このような変化に富んだ用法を確保することが「暗器」には必要なのであるが、一般に見られるような「鉄の指輪」のついている点穴針では使い物にならない。これは演武において点華針を回してその存在をアピールするためのもので、ただ点穴針を持っていたのでは見え難いためである。回転させてその武器のあることを演武を見ている人に知らしめるためであって、実戦からすればまったく逆の効果しかないことになる。また「指輪」があると点穴針が受ける衝撃が一本に指に集中してしまうことになりきわめて危険でもある。