宋常星『太上道徳経講義」(6ー3)

 宋常星『太上道徳経講義」(6ー3)

綿綿、存するがごとければ、これを用いても勤(つか)れず。

最後にこの章のまとめが記される。「谷神」であるとか、「玄牝」であるとか、「天地の根」であるとかの働きは、無為にして為されるのであり、あえて陰陽が円満に交わる機を探るようなことがなくても、自然にして熟している。それは予測することもできない「玄蘊の密義」なのである。それは見ることができないので無いようであるが、実は存している。そうであるから「存するがごとければ」とある。つまり存してはいるが、何時でもそれが実感されるわけではない。そのために「綿綿として存するがごとければ」とあるのである。これは生じさせようとすることがなくも生じているのであり、その生じていないところはない、生の至(いたり)なのである。(成長変化は)化することなくして化しているのであり、あらゆるものにおいて化していないものはない。これは化の極(きわみ)である。あらゆるものが生まれ生まれて、化し化しているものの天地はそれを知ることなく、万物にあっても万物はそれを知ることがない。これを使おうとしても意図的に使うことはできず、これを用いようとしても用いることはできない。これは天地の根の立つところ、玄牝の出入りするところの門であって、谷神も死ぬことのないところでもある。もしこうした(生成変化の)意味を知ることができれば、天地も人も物も、すべて一つの理で動いていることが分かるであろう。またこの身の谷神がこれまでまったく天地の谷神と違って働くことのなかったことも知ることであろう。我が身の玄牝も、いまだかつて天地の玄牝と違って出入りすることはなかった。真の呼、真の吸は、綿綿として存するがごとくで、真の陰、真の陽はこれを用いても勤(つか)れることはない。陰陽の実理は、自ずから悠然としており、それを深く得ることは可能なのである。


〈奥義伝開〉「谷神」は虚であり、そこから「玄牝」である陰が生まれ、陽が生じる。ここから「天地」すなわち陰陽の働きによって、この世に万物が生み出される。万物の「根」はここにある。これと同じことが人体においても生じている。ために人がいろいろなものを生み出そうとするのであれば、それは「虚」によらなければならない。ただそれをどのように実現するか、が問題であったが、これは太極拳のような動きをすることで「綿綿」の呼吸を練ることが見出された。これは実際にやってみると分かるが、どのような動作であってもゆっくりやれば「綿綿」の呼吸になるということはない。まさに太極拳の動きが絶妙な完成度を示しているのである。


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